寶暦六年銀札停止の後、加賀藩にては幕府製造の金銀貨と錢貨とを混用したりしが、前田齊廣の時、文化十一年秋金澤の兩替商酒屋宗左衞門・升屋次右衞門・森下屋九郎次郎・木屋孫太郎等は、藩の御算用場の認可によりて、銀子預手形を製造發行せしことあり。この手形は、坊間に銀貨少く、商取引の圓滑を缺きしを以て、之が補足を計りたるより起りたるも、次第に民間に通用し、藩亦之が運上を徴するに至れり。 次いで、文政二年十二月廿八日金澤町會所より銀子預手形を出し、金銀銅と共に通用すべき命を發したりしが、これ亦町奉行山崎小右衞門・高畠木工二人の權限により、町會所に於いて製造したるものにして、兌換紙幣とし、發行額も亦隨つて多からざりき。その手形の種類は、五百目・三百目・二百目・百目・五十目・三十目・二十目・十匁の八等にして、翌三年二月五匁・四匁・三匁・二匁・一匁・五分・三分の小札を出す。その三分以上の手形には銀何程、十匁以上のものには文丁銀何程と書し、兩替御用聞にして手形發行主付たりし松任屋清兵衞・富津屋七左衞門の記名調印を爲せり。次いで文政六年六月町會所發行の銀子預手形の形式を改め、その發行手續を嚴ならしめ、舊手形を悉く新手形と交換せり。新手形の種類は、一貫目・五百目・百目の三等にして、小額のものは皆停止せらる。この手形は磨滅せるを以て文政十年四月中に新手形と交換し、尚通用せるを見る。