文政八年三月幕府は新に文字金銀貨を發行せんとせしを以て、藩をして一貫目・五百目・百目の新銀預手形を發行して民間に藏する古金銀を引上げしめしが、同年六月藩はこの手形の内を以て、十匁より一匁に至る小割手形を發行せり。之と同時に七月を限り、一貫目の新銀預手形を幕府發行の新貨幣と交換し、五百目札は九月、その他は翌九年三月悉く引換を了し、同月二十日を以て通用を停止したりき。是を以て新銀預手形の通用二ヶ年にして止む。 前に述べたる兩替商發行又は町會所發行の銀子預手形は、藩の財政當局たる御算用場の直接に關する所にあらず。文政八年の新銀子預手形は、御算用場之を發行せしといへども、固より幕府の命によりて古金銀と新金銀とを交換する爲、一時の便宜に出でしに外ならず。然るに文政九年藩の保證によりて手形を發行せしめんとの議あり。こは千羽彦太夫といふ者の發意なりしが、大村友右衞門は他日財政紊亂の源因たるべしとて反對せしも、用途窮乏の際なりしを以て、遂に探用する所とならず、藩は六月十二日銀仲升屋次右衞門・酒屋宗左衞門二人を引替人たらしめ、御算用場及び町會所の加印によりて、銀百目の預手形を發行せしむべきことを布告するに至れり。銀仲は米仲買座に屬する金融業者にして、この手形を銀仲預銀手形と稱す。手形の表面には銀百目預・御銀(オカネ)裁許升屋次右衞門・酒屋宗左衞門と記され、通用期限を十一月十日限とし、同日以後晦日までの間に、御算用場に於いて正銀と引換ふべきことを條件とせり。かくの如く當初極めて短期を限りたるは、發行を容易ならしめんとするの權宜に出でたるなるべく、而して藩が直接に發行責任者とならざりしは、是より先安永二年八月の幕府令によりて、曾て銀札を使用せることある藩に於いても一旦中絶せるものは再び發行すること能はずと規定せられたるによるものゝ如し。 當時銀支に而一統不融通に付、當町銀仲預り百目宛之手形、右手形裁許升屋次右衞門・酒屋宗左衞門添印に而出來、御算用場・町會所加印致し可指出候間、此節より當十一月十日迄、御領國一統正銀同樣無滯通用可致候。且引替之儀者、右同日より同晦日迄之内、御算用場に於て正銀と引替可申候。(下略) 六月十二日百(文政九年)長甲斐守 〔御定書〕 加賀藩銀札及び錢札石川縣立金澤第一中學校藏 加賀藩銀札及び錢札