かくて銀仲預銀手形の正貨に對する相場常に良好にして、恰も正銀同樣に通行せしが、嘉永四年八月初めて銀仲淺野屋次郎兵衞の引替所たることを止めしめ、御算用場直接取扱の銀札とせり。しかも政務多端の際、銀札そのものは之を引換ふるの餘裕なかりしかば、在來の銀仲預銀手形に増印を施して通用せしめしなり。六年七月また新手形を發行す。その形稍從來より小にして、百目に麟麟、五十目に竹に虎、十匁に牡丹に唐獅子、五匁に紅葉に鹿、三匁に葡萄に栗鼠、二匁に浪に兎、一匁に瀧に鯉、五分に浪に龜の印を用ふ。次いで安政五年七月二日及び元治元年十月二日にも新札を發行せり。嘉永六年以降の手形は皆楮紙中の漉しを廢す。唯元治元年のものに通の字の漉しあるのみ。この銀札は明治元年五月以降錢札と引換へ、三年四月を限り通用停止を告示したりしも尚殘存し、六年五月政府の新貨幣と交換するもの總數四十一萬二千五百九十三枚、この銀價九百六十三貫百九匁なりき。 預銀手形の相場は正銀よりも稍廉にして、金一兩に對し預銀手形六十八匁を普通とせり。然れどもその甚だしく低下せる場合にありては、天保三年七月の如く、預銀手形八十三匁を以て金一兩と交換せしことあり。預銀手形の錢貨に對する比例も、亦金貨の錢貨に對する比例と必ずしも一致することなし。即ち金一兩は錢四貫文なるが故に、金一兩に付預銀手形六十八匁の相場なるときは、預銀手形百目に付錢五貫八百八十二文となるべき計算なれども、嘉永中金一兩預銀手形札六十八匁なる場合に於いて、預銀手形百目錢六貫五百二十八交換なりし實例を見る。而して明治四年七月廢藩の際に於いては、金一兩に銀札百九十七匁九厘に下落したるが故に、同六年五月政府が舊銀札を新貨幣と交換したる時には、金一兩を新貨幣金一圓に宛て、前記四年七月の相場に基づきて、銀札一匁を新貨幣金五厘に兌換せり。