上記の外加賀藩の領内各地に於いて、文政の末年より町奉行の許可を得て預銀手形を發行せるものあり。その制、小松は表裏共に黄色、本吉は薄紅色、松任は萠黄色、七尾は白色、鶴來は表黄裏白の紙質を用ひたりき。 預銀手形の外、別に預錢手形といふものあり。文政八年六月封内に錢貨尠くして融通の便を缺きしを以て、金澤町會所に於いて御算用場の加印を得之を發行したるを初とし、一貫文・五百文・百文・五十文の四種あり。預錢手形は表面に錢何程と記し、黄色の紙を用ひたりき。翌文政九年四月四日町會所令して、此の月廿五日を限り預錢手形を停止す。これ頃日錢の相場漸く低落したりしを以てなり。然るに同年十二月廿三日、錢相場復騰貴して融通圓滑を缺きしを以て、去年六月發行の預錢手形に増印を加へて、廿六日以降通用するを命じ、更に十年六月預錢手形を止め、七月二十日までに預銀手形を以て引換ふることゝせり。 近年錢拂底の樣子に而、相場引立、不融通相成候に付、當分錢手形致出來候はゞ、一統通用方辨利に可有之候。依之錢手形町會所にて出來、五十文より百文・五百文・一貫文迄四通に仕立、尤御算用場加印等致、右手形來月朔日より指出候間、正錢同樣無滯通用可致候。(中略) 錢手形相場百目(銀札)十貫文指に相極候事。 六月廿四日(文政八年)長甲斐守 〔三州寳貨録〕 天保四年以降封内に飢饉あり、七八年に至りて最も甚だしく、錢貨の相場漸く上昇して、預銀手形百目に對し錢六貫文餘となる。依りて八年七月十八日預銀手形百目代錢十貫文の定相場となし、小指(コザシ)を止むべきを令せり。然るに錢貨拂底の極、市中の兩替商等皆營業し能はざるに至りしを以て、彼等は藩に請ひて、各自百文より一貫文に至る輕便の預錢手形を發行せしも、錢貨は尚依然として市場に現はるゝに至らざりき。こは全く錢貨の定相場なるに源因するものなるを以て、十月廿四日藩は再びその相場を變動して小指を許したるに、果して錢貨の流通を見るに至り、是と共にその相場も亦漸く下落したりしかば、兩替商發行の預錢手形は自から跡を絶つに至れり。