加賀藩が嘉永四年八月より銀仲預銀手形を御算用場取扱の銀札とせしこと前に言へる如くなるが、明治元年政府は銀の通用を廢したるを以て、五月藩は錢札を發行し、錢札百文を銀札一匁に相當することを定め、漸次銀札の交換引上を行はんと計畫せり。錢札の種類には、十貫文・五貫文・一貫文・五百文・三百文・二百文・百文・五十文の八等あり。次いで同年改元以後亦粗製の新錢札を出したりしが、二年十月三日、明治元年發行の錢札にして紙に漉入なきものゝ贋造多きを以て、先に増印を施せる十貫文以下五百文の錢札は悉く十一月十五日以前に引換を了すべく、十六日以後は通用を禁止すと令し、三年六月十二日十貫文の錢札を廢して三貫文・二貫文を加へ、七月又漉入なき三百文以下五十文の錢札を九月限り禁止すとせり。而して殘餘の錢札の明治六年五月に至り政府の新札と交換せられたるもの千九百七十七萬八千六百九十九枚にして、その額四千二百三十萬五千四百十五貫百文なりき。 飜つて大聖寺藩に於ける紙幣發行の沿革を考ふるに、加賀藩よりも早く、元祿十四年九月廿三日より銀十匁以下二分までの銀札を發行して正銀と混用せしめ、一分九厘までは錢遣を命じたるに起る。然るに寶永四年十月十三日幕府は各藩に紙幣の停廢を命じたるを以て、大聖寺藩は廿一日以後正銀を使用すべきことを發令せり。次いで享保十四年六月四日幕府は既に一たび紙幣を使用したることある藩に於いてのみ、幕府の許可を得たる後之を再發行することを得とせるを以て、大聖寺藩にては二十年十月を以て之を通用せしめたりしが、翌元文元年四月七日城下の町民等銀札と正銀との交換比例の不當なることを唱へて札場に殺倒せしことありき。之より後銀札の沿革に就いては全く之を明らかにすること能はず。天明六年十二月十七日大聖寺藩は米札の名義を以て錢札を發行す。然るに幕府は寛政十一年四月米札の通用を禁ぜしが故に、藩は同月十二日限り之を止め、七月更に錢手形を發行せり。文化二年新札を以て引換へ、錢鈔二宇の印を押捺し、舊札の錢及び手形三字を除く。同十三年四月錢手形十貫文を以て銀百目に相當すと公定し、その正金銀と交換する場合の差額を定む。錢手形の沿革も亦之を詳にせずといへども、藩末に至りては五貫文・一貫文・五百文・三百文・二百文・百文・五十文・三十文・二十文・十文の十種の錢札あり。廢藩の時に存したる總數九十二萬千六百五十枚、この價八十八萬四千九百貫文なりき。