金融及び物價に就いては、前編所々に之を記述せり。故に本節に於いては、物價標準となるべき米價の極めて著しき變動と、之に件ひて起りたる民心の動搖とに關して略記せんと欲す。 物價に關する藩の記録は、享保以降に至りて稍之を見ることを得べし。即ち同五年に於いては、米價の騰貴最も甚だしく、七月二十日遂に一石銀二百三十目に達し、實に前古未曾有のことなりと稱せられき。然るに十四年、封内風水の害甚だしく、減收四十五萬二千石に上れるに拘らず、米價は非常に低下して、一石銀二十八匁六分となりしかば、藩は十月十六日令して、士人の先に會所銀を借りたる者は、今年之を返納せざるも隨意たるべしといふに至れり。次いで十六年には、再び先の五年以上の高直に上り、十二月四日二百五十目を現出して、世人を驚かしめたりき。而して十七年は概ね平靜にして三四十目を上下したりしが、今秋又蝗害ありたるを以て、十八年正月に至りて金澤は七十四五匁、能登・越中は六十二匁に騰貴せり。因りて藩は金澤の外、加賀の小松・本吉・松任・鶴來・宮腰・津幡、能登の飯山・富木・所口・道下・輪島・宇出津・飯田、及び越中の數ヶ所に賣場を設け、時價の半額により一人三升宛の米を賣出して救濟の途を講ずるに至れり。