この享保の半なる前田吉徳襲職の直後より、藩の財政は著しく紊亂し、借銀年毎に増加して、寛保三年の頃にはその總額二萬貫目に上ると稱せられき。この借銀は前田重煕の果斷により、寛延の頃藩有の古金・竿金を大坂に賣り、一時過半を償却し得たりしが、その後藩侯の卒去相繼ぎ、國事極めて多端なりしと共に、一面には寶暦二年の頃より米價下落して諸士窮乏を訴へしも、藩は之を救濟するの手段なかりしを以て、五年七月初めて銀札を發行せり。この時銀札の流通を圓滑ならしめんが爲、正銀の使用を停止し、錢貨も亦惡紙幣によりて市場より驅逐せられたりしかば、米價忽ち向上して、六年三月二十七日金澤に於ける米一石の相場銀二百三十五匁となり、遂に四月十二日には暴民蜂起にて、米商人たる森下町の釣部屋仁兵衞・茶屋三郎兵衞・尾張町の淺野屋知左衞門・新町の茶屋三右衞門・下堤町の角屋彌三右衞門・袋町の木屋藤太郎を襲ひ、家屋什器を破壞したること、前節に之を述べたるが如し。蓋し物價の異常なる變動に際し、その誘因を奸商の行爲に歸して、所謂打壤しなる直接行動を加へたるは之を以て嚆矢とするが如し。而も米價は尚上昇の一路を辿り、五月十五日に三百目となり、二十九日に三百五十目となり、六月十一日の頃に至りては六百目に賣買するものを生じ、ぞの極同月十九日・二十日の八百五十匁を現出せり。是に於いて米穀の城下に輸入せらるゝもの殆ど無くして、奔騰の勢底止する所を知らざりしを以て、藩は六十五戸の米穀小賣營業者に對して一日各一石を分配し、初日の立相場を五百目とし、爾後日々十匁宛を低下して、三十日の後には三百目となし、終に二百目まで引下ぐべしとの命を發せり。然れども此の如き人爲的施設は何等の効果を齎すこと能はず、却りて六月二十四日一石銀一貫三百目に進み、翌二十五日二貫目に暴騰して、之を藩初以來の最高値と稱せられたる享保十六年に比較するも尚且つ八倍するに至り、米穀以外の商品も亦略之と歩調を一にして、木綿一疋の五十目、茄子百個の三十目、堅瓜十個の七匁、西瓜一個の三十目、薪一駄の三百目、胡麻一升の六匁、酒一升の十五匁、油一升の三十目等、何れも平時に數十倍せり。此の如きは固より正銀を停止して、兌換の準備なき銀札を發行したるにあるが故に、藩は之が救濟の方法として、七月七日を以て本月二十五日以降銀札の通用を停止すべきことを豫告し、次いで之を實行したるに、人心漸く鎭靜して物價亦低落せり。而してこの際藩は銀札を回收するに要する資銀を有せざりしを以て、藩士俸祿の一部分を上納せしめたりしが、その後延きて流例となり、甚だしく士人の生活を脅威したりしことは之を前編に述べたり。