明和より安永に至る間の米價は、概ね一石銀四十目より四十四五匁を上下せしが、安永五年末より物價の騰貴を見、六年正月十六日金澤堀川町の貧民等、石川郡粟崎村の富豪木屋藤右衞門の家に至りて金錢を借用せんと強請せり。藤右衞門の手代等之に應じ、即ち證書を徴して一人に付錢一貫五百文宛を貸したりしに、翌日は更に大擧して至り米一斗宛を得、爾後益強迫者の數を加へたりき。是に於いて藩は盜賊改方の吏長屋多七郎を派して警戒せしめしかば、同月下旬に至りて漸く鎭靜に歸せり。但しこの時の米價幾何なりしやは明らかならず。 天明二年諸色高價となり、盜賊所々に横行す。三年秋又氣候不順にして作毛熟せず、秋雨亦多くして稻を乾かすに堪へず。是を以て四年正月以降米價日々昂騰し、銀八十目より九十目に進み、五月より六月の間は百二十目を支拂ふも之を賣るものなく、能美郡にては餓莩を出すに至れり。藩乃ち所々に米賣場を設けて貧民を救濟し、七月藩米三萬五千石を一石銀四十三匁に賣出しゝに、之より日々下落して四十目を唱へ、前日來の反動として先安の見込濃厚なりしかば、七月朔日の半納期に藩士の拂米を買受けんとするものなく、爲に藩士は皆盆節季の仕拂を停止せり。次いで六年氣候又順ならずして米價騰貴したりき。 天明四年甲辰正月より米次第に拂底[常の直段大抵一石に付、四十匁より四十五匁位]八十目・九十目・百目と騰躍し、五月・六月に至り百二十目餘となり、右の直段にても米なし。只野山の草々の根を掘木の芽を食とす。下敷の糠迄も喰盡せり。干菜一連三十五錢(文)に買しとしるべの方の書状于今所持せり。御上よりの米賣場有といへども、兼て家毎の家數・人數を以、男三合女二合の札渡りて餘慶は望がたし。依て薪を負ながら道に倒れ、椀を持て道に死する者は毎日三人五人なり。町里浦山々も皆然なり。小松山王(能美郡)より八幡迄の往還玉縁に倒伏し、通る人を見てひだるし〱と泣。此所計にても毎日餓死する人多し。勘定村山にセキメンとて、至て白く、碎けば葛根の如き潔白成る土あり。飢饉には食物と成と言傳侍れば、是を取り麥稈など少し宛交ぜて食せしに、何れも糞つまりて皆死せり。若後世かゝる事ありとも必喰ふべからず。扨て九月より冬に至て、疫癘はやりて死する者家毎なり。是皆同じ。わけて山方は夥し。予其頃鍋谷村と云を通りしに、屋根崩れ扉傾き、葎に埋れし家軒を並て數を知らず。皆死絶たる家なり。死骸は葬るべき人なければ、皆谷へ捨たりとかや。小松にても行たふれ死たる者は、三昧に大き成る穴を掘置、死骸どもを投込し也。後其跡に石塔立て今に哀を殘す。 〔螢の光〕