享和より文化に至る間の金澤に於ける米價は益明瞭なり。 享和元年七月五十二匁五分┃享和元年十月五十五匁五分 享和二年七月五十目五分┃享和二年十月六十目 享和三年七月五十四匁┃享和三年十月四十九匁 文化元年七月四十九匁五分┃文化元年十月―― 文化二年七月五十二匁┃文化二年十月四十二匁 文化三年七月四十七匁┃文化三年十月四十四匁五分 但し此等は金澤の半納期及び本納期に於いて本年收納すべき新穀の相場なるが故に、實米は之よりも尚多少高價なりしなり。而してこの相場の五十五匁を超過するときは米穀を購入すべき下民困窮を訴へ、四十二匁に下りし時には米穀を賣拂ふ士人の艱苦するを見たり。文化二年十二月米價下直にして金融の圓滑を缺きし時、藩士が町會所の仕送銀借用を請ひて許されたる如きも、亦四十二匁以下に下落せしが爲なり。