その後文化九年七月の米價は一石銀四十七匁とし、同十月には四十三匁、十年七月には五十一匁にして比較的平靜を保ちたりしが、この年不作なりしを以て、同年十月の本納期には五十六匁五分に騰貴せり。この時能登の口郡百五十五村の農民は本年の年貢を皆濟するに堪へずとなし、檢見によりて免切を行はれんことを請ひたりしが、藩は之を許さずして代ふるに一萬二千石の貸米を以てせんことを約せり。然るにとの一萬二千石を分配するに當りて、先に檢見を出願したる村邑のみに止らず郡内一般に均霑せしめんとしたりしかば、その處置を以て鹿島郡本江村の人にして羽咋郡押水組の十村たる惣助の爲す所なりとして攻撃するもの尠からず。遂に十一月十日夜押水組の農民二百餘人、子浦に於ける惣助の事務所を圍み、貸米の少額にして到底年貢を皆濟すべからざることを論じ、惣助に惡罵を加へ、次いで十二日には酒井組・能登部組の農民等、本江村惣助及び酒井村一樂の住宅に赴き、貸米の増額を藩に請願せんことを強要し、又所々に集合して法螺・竹筒を鳴らし、二十九日笠師組の農民は笠師村九郎兵衞の家に迫り、その歸路中島村助右衞門の家を圍み、彼等が廉價の米穀を買入れて高直に賣出すの不道徳を難詰し、戸障子を損傷せり。因りて郡の御扶持人十村等はその間に斡旋し、更に米三千石を融通して年貢の皆濟に當てしめしに、人心漸く平靜に歸したりき。然るに藩の御郡所に在りては、此くの如き農民の暴擧を默許すべからずとなし、吏を發して事情を追究せしに、藤瀬村の肝煎與三郎がその首唱者たりしことを知り、與三郎以下二十五人を捕縳して金澤に送致投獄せり。後與三郎は所磔に處せらるべき宣告を得たりしも、彼の犯罪が前田利長二百年忌の際に當れるを以て特に一等を減じ、翌十一年十二月二十六日公事場に於いて刎首せられ、次いでその居村に梟せらる。而して免田村の嘉右衞門以下十人は、この月十九日を以て出牢を命ぜられき。この暴動は、端を貸米の分配に對する不平より發したりといへども、後には豪農輩の機に投じて利を貧るを憤慨する小農の暴動となり、普通の打毀しとその揆を一にするに至りしなり。