金澤の城下に於ける市場の最も主要なるものには、米市場・魚市場及び青物市場あり。今順次この三市場に就きて記述する所あらんとす。 凡そ百姓の生産する米穀は、その一部を藩侯又は藩侯の指定したる給人等の收納する所となし、一部を生産者たる百姓の作得となす。是等の中百姓が藩侯に對して上納する年貢米は、領内數十ヶ所に設置せらるゝ藩倉に收納せられ、これを御藏米とも御詰米とも稱す。御藏米はその必要とする額を貯藏して、時々費消又は賣却し、殘餘を江戸又は大坂に廻漕す。これを廻米と名づく。又給人の收納する米穀は、百姓をして給人の指定したみ藏宿に運搬せしむ。町藏米又は給人米といふもの即ち是なり。給人は藏宿に對して一石の藏敷米二升を仕拂ふものにして、その寄託したる米穀を隨時に引出すものを引米といひ、又給人より米切手を振出し、藏宿をして指定の石高を賣却せしめ、その代債を受くるを拂米と稱す。百姓がその年貢米を藩倉又は藏宿に納入する場合に在りては、藩倉には代官、藏宿には手代ありて、嚴密にその質と量とを檢査し、麁惡なるものを卻けて收納せず。故に御藏米又は町藏米は取引上最も信用し得べき商品にして、その拂米切手を買ひ集めて市場に賣出すものを米仲買とし、定期に之を取引する機關を米仲買座とも米場ともいへり。 加賀藩に於いて最も古く創立せられたる米場は越中高岡のものにして、一時甚だ隆盛なりしが、明和七年藩は御藏米及び町藏米賣拂の利便を計り、その取引を金澤の米場に於いてのみ行ふべきことを令せり。然るに金澤の在米高は年額僅かに十數萬石を算するに過ぎずして、拂米の大部分は金澤以外殊に越中に在るのみならず、藩外に輸出せらるゝ米穀も亦越中の諸港灣よりするもの多きに居りしを以て、高岡の仲買人等この命令を全く理由なきものなりと斷じ、依然としてその米場に於いて相場取引を行ひ、高岡の外にも越中石動・魚津・加賀松任・小松に亦地米の賣買を爲すものありて、金澤の米場は勢不振の状を免るゝこと能はざりき。是を以て文政六年金澤の仲買人等他の諸米場を停止せられんことを藩に請ひ、翌七年遂にその許可を得たりしかば、加賀・能登・越中三國中に於ける米場の經營は全く金澤仲買人の獨占する所となりて、大に殷賑を加ふるに至れり。その後天保五年宮腰に在りては干鰯(ホシカ)商、松任に在りては菜種商と稱して、金澤の米相場を標準とする毎日仕切の張相場を行ふものを生ぜしが、亦幾くもなく停止の命を得たり。