金澤米場の起原は、寛文中に在りとするを以て定説とす。その初期に在りては米仲買集所と名づけ、仲買人中主要なるものゝ家に會して取引したりしも、固より公然たる商業機關にあらざりしが、元祿の末年に至り森下町の田上屋惣右衞門は、己が家を以て集所と爲し、自らその事務を主管せんことを出願して金澤町奉行の允許を得、次いで寶永中森下町の鹽屋傳右衞門・石浦町の大野屋次郎兵衞及び東力屋半兵衞は、同一の主旨を出願して又許可せられたり。この後常に四ヶ所の集所ありて、米商人等日々隨意に之に赴き立會ひたりしが、かくの如く數ヶ所に會合して相場を立つるの不便を感ずるに至りしを以て、元文中毎日交番に集所を變ずることゝし、次いで更に半月宛交代することに定めたりしも、尚その煩瑣を脱すること能はざりき。依りて享和三年九月、町奉行井上井之助の勸告に基づき、各集所を主宰したる鹽屋傳右衞門・能登屋九左衞門・能登屋半兵衞・森川屋半六の協議を經、十間町に合同集所たる金澤米場を開設せんことを出願し、許可を得て業務を開始することゝなれり。これ今の金澤米穀取引所の濫觴にして、その位置も亦同一なり。かくて集所は合同するに至りしといへども、之が頭取たるものは依然として在來の座主四人にして、その特權を他人に讓渡することも亦町奉行の許可を經るときは爲し得べしと定められたり。但し集所たる建造物は彼等の中一人の名義となし、その維持經營と諸上納とに關する經費を負擔し、仲買人より盆・暮の兩度に場錢を徴收したるものより之を控除し、殘額を四座主の間に分配せるなり。弘化二年十月横堤町より出火せし時、集所も亦類燒の難に罹りしが、後六間に八間の平屋造を建て、爾後八十年間大正の末に至るまで之を使用したりき。