米仲買の員數は米場の初期たる延寶の頃二十七名を算したりしが、天和元年に至り彼等を淘汰して八名を選拔し、起請文を徴してその業に從はしむることゝせり。然るに幾くもなく再び増加し、貞享四年百六十七人の多數を算したりしを以て、同年又銓衡して五十八人に限定したりき。而も同業者一同の諒解を得る時は、二名の證人を立てゝ仲買となり得べき途あり、或は集所座主又は仲買等にして營業數十年に亙り特に功勞ありと認められたるものは、その子弟をして仲買業を開始せしめ得べき褒美仲買といふものすらありしかば、仲買の數は常に増加するのみにして、寛政七年には百七十三人を數へたりき。次いで同十二年仲買開業に關する規定を改め、仲買たるものはその身元の確實なるべきを要すとせる一面には、曾て仲買の手代たりし者の組合頭を寄親として出願する時は特に許可することあるべしとの法を設け、享和元年には普通仲買の數を百五十五名に限定して株立とし、褒美仲買は仲買組合頭の子に限りて之を許すも世襲せざらしむることゝせり。是より仲買株を賣買し得ることゝなり、その新たに仲買たらんとするものは、二人の請人を立て、居住地の町役人及び仲買組合頭の連印を得たる願書を認め、仲買肝煎役を經て之を町奉行に提出するを要し、既に町奉行の許可を得たる時は、改めて血判したる誓紙を納め、こゝに初めて米場に出座し得るを例とせり。 天罰起請文前書之事 一、今度御吟味之上を以、跡々中買共之内御選被爲成、彌向後私共中買仕候樣被仰付、難有奉存候。最前より之御定書竝今度御書出之趣、急度相守可申候。若仲間に、米中買之儀に付手立ヶ間敷儀仕候者有之候者、殘る者共より御斷可申上御事。 一、私共取持、米賣買爲致候時分、米百石に付手付銀四百目充請取渡仕、勿論慥に證文取かはし、賣買爲致可申御事。 一、私共自分に米賣買不仕、口錢迄取可申御事。 一、當收納米切手、八月以前に賣買口入仕間敷御事。 一、他國他領之儀不及申上、總而他所者に被頼、名代(ミヨウダイ)に罷成、米切手賣買仕間敷御事。 一、不應分限米賣買仕者御座候者、私共口入賣買爲致申間敷御事。 一、仲間申談、御給人米御拂之儀、手支申樣成事仕間敷御事。 右之條々於相背者、忝も左に申降神罰冥罰各可蒙之者也。依而請文如件。 延寶九年(天和元年)四月十日に極る何町何某血判 何町何某血判 〔金澤米穀取引所沿革〕 ○