一、米中買人數年來増減有之候所、近年新に相願候儀は不承屆、讓替等商賣同樣之振に押移、當時百七十人許に相聞え候。就中諸肝煎等爲褒美、中買一人指遣候儀ども前々より有之事に候へども、今般詮議の趣を以て此後中買株に申渡候。且又中買組合頭之忰新に申付候分は、是迄の通其者一代にて、外へ相讓り申儀は不相成候事。 當時相勤居候中買共之内、商賣方不得手之者は、讓替只今迄之通可爲勝手候。若讓受申者無之砌は、其株限先づ一貫目に相定、身元相應之中買共に申付、爲持分致置、追而讓受相望申者有之候ば、御法之通爲相願可申候。但し右持分之中買株人數之儀、以前之振を以て人別商賣札渡置、讓替等有之分は其時々相改可申事。 附り、右株札中買肝煎手合にて相認可渡事。 右之通り夫々可被申渡事。 享和元年酉三月富永右近右衞門(町奉行)印 井上井之助印 槻尾甚太夫(町同心)殿 〔金澤町米商成立濫觴〕 米場に於ける機關の一に銀仲あり。銀仲は後刻證文と稱する手形を運用し、米仲買業者に對し資銀の融通を圖るを營業とするものにして、金澤米場獨特の機關とし、その商行爲に關しては米仲買肝煎の監督を受く。銀仲の數は古く十五人の株立なりしが、寛政二年十月銀仲組合頭を置き、同七年には銀仲十四人を算せり。銀仲の所得する口錢をズワヰ銀といへり。ズワヰはスアヒの訛にして牙儈の意なり。因に言ふ。明治元年五月加賀藩の銀札を廢し、錢札を以て之に代ふるや、銀仲は同時に錢仲と名を改めたりき。