犀川口なる魚屋町の市場に就いては、今その濫觴を知るべからざるも、亦元祿三年三月十六日夜竪町より起れる火災により類燒せしが、再び舊位置に復興せられたるなり。されば金澤町會所留帳に載せたる、享保六年十二月二十八日の書札に、『兩魚問屋給銀五貫目宛之處、來寅の年より新銀四貫五百目宛に被仰付。』とある兩魚問屋は、近江町と魚屋町とを指すものなりと解せらる。 この兩市場を置かれし頃にありては、安宅・本吉・相川等上口の浦々にて漁獲せる魚類は之を魚屋町の市場に運搬し、宮腰・大根布・荒屋・高松等下口海濱の捕魚は之を近江町の市場に輸送せり。然るに能登の七尾・輪島、越中の氷見・放生津・岩瀬・魚津等遠隔の地に産するものも、亦地理の關係上之を近江町に出すを便としたりしが故に、その繁昌日に月に加りたるに反し、魚屋町は商品の供給を受くること少く、從つて衰勢に陷るを免れざりしかば、遂に之を廢して近江町に合併するに至りしものゝ如し。その合併の年代は明らかならざるも、享保六年に兩問屋ありしこと前述の如く、而して兩市場の併合したるを亦享保中にありと傳ふるものあるが故に、略之を推定するに難からざるなり。但し魚屋町に於ける家屋の構造が、魚問屋たりし當時の舊態を存したることは遠く文化中に及び、軒下の奧行を六尺に作りて荷物を置くに便じたりき。思ふに之より先寶暦の大火災ありて、この地亦盡く焦土に歸したりしも、その復興せらるゝや尚依然として魚屋町時代の遺風を恪守せしが爲なるべし。然るに爾後改造するもの漸く多く、天保・弘化の頃に至りては魚屋町時代より營業を繼續せる野々市屋の附近兩三戸のみに六尺軒を見たりといへり。 藩治の初期に在りて、魚類の賣買は必ず之を一定の場所に於いてせしめ、決してその他の所に於いて行ふを許さゞりしことは、天正十四年七月利家の魚町年寄中に與へたる命令によりて知るべし。但しこの魚町といふは、能登七尾に於ける魚屋の營業區域をさすものなるが故に、金澤の城下にては果して如何の状なりしかを知る能はずといへども、當時尚大市街の形勢を爲すに至らざりしを以て、恐らくは同一の制令を設けられたりしなるべく、魚問屋の店頭に於いて、若しくはその店員の配給によりてのみ發售分散せられしが如く思はる。利常の世袋町に魚市場の起りたる後寛永四年九月の定書に據るときは、請賣業者は問屋の拂渡價格に二割の利子を加へて賣捌くべしといひ、且つ彼等の暴利を制限する爲、日々の收支を帳簿に記入して、一ヶ月毎に町奉行下代の檢閲を經ざるべからずと規定したるを以て、是より前既に城下の膨脹に伴ひて、所々に請賣業者を散布せしむるの利便を感じ、乃ち之を許可するに至りたるものなるべく、而して魚類の公定價格は問屋六人の協議によりて定め、之を請賣業者に賣渡すことゝせり。問屋の數は、時代によりて必ずしも一定せず。且つ株立たらざりしが如く、在來の營業者以外、適當の者には何人たるを論ぜず免許すべしとせられたり。この年問屋業者は、彼等が藩侯所用の魚介を撰進するの地位を占むるを以て、その營業に對して藩の保護を得んことを懇請し、遂に御城銀二十貫目の貸與を受け、而して之に對する報恩の意味を以て問屋業者より毎年銀子百枚を上納すべきことを定めたり。 當町魚物賣買之事、魚屋外脇々にて賣買一切令停止。若違背之族於有之者可加成敗者也。 天正十四年七月四日利家印 魚町(七尾)年寄中 〔加賀志徴〕 ○ 覺 一、御菜のもの共遣用として、御理申上に付而、御城銀二十貫目被仰遣候。右之爲御禮毎年銀子百枚宛可指上旨申上候。年々無滯可指上候。但右之銀於被召上者、百枚之御禮銀可被成御赦免之事。 一、當町惣樣魚屋方、二分之新役並札役當年より御赦免に付、惣樣魚屋共手前より爲御禮毎年銀子五十枚宛可指上候旨申上候。是亦年々無滯可指上候。 一、諸浦より當地へ持來候肴、如前々先とひや六人之者ども手前に而直段相定、請賣之者どもかたへ可相渡事。 一、請賣の者ども肴商賣直段之事、問屋相定候直段に二割の利足を取賣可申候。此外肴高直に賣申候ば、請賣之ものども可爲曲言候。然者請賣之もの共毎日日限を付置、月切に兩下代手前に而可遂勘定事。 一、魚屋かた問屋之事、先とひやにかぎらず、何に而も慥成もの望次第に可被相定候。自然浦方之者に對し非分之儀有之付而は可爲曲言事。 右之通急度可被申付候。仍如件。 寛永四年九月十七日横山山城守 本多安房守 石川茂平(金澤町奉行)殿 宮崎藏人殿 〔慶長以來定書〕