藩侯の上洛は、第三世前田利常の時に至るまで屢これありしといへども、光高の世には之を見ず。次代綱紀の時、江戸よりの歸途享保五年四月一たび之に赴きし後、約百五十年間に亙りて全くこの事を絶てり。然るに藩末に至り、文久三年二月齊泰が幕命によりて上洛したるを初とし、國事匇忙の時に會して再び往復の頻繁を加へたりき、這次の旅程は左記の如く里數六十四里餘を十三日程とせしが、後短縮して松任・小松・大聖寺・金津・福井・府中・今庄・敦賀・海津・大溝・堅田・京都とし、又は松任・小松・大聖寺・金津・府中・今庄・敦賀・海津・堅田・大津としたることあり。而して是等の行程中、琵琶湖に於ける舟運を利用することなかりしは、供奉の多數なるが爲とし、個人の旅行には多く鹽津・大津間を乘船してその日數と勢力とを省くを常とせり。 第 一 日金澤出發松任宿泊里程三里五町 第 二 日寺井中休小松宿泊里程五里 第 三 日動橋中休大聖寺宿泊里程五里十四町 第 四 日細呂木中休金津宿泊里程四里 第 五 日舟橋中休福井宿泊里程四里十八町 第 六 日水落中休府中宿泊里程五里十八町 第 七 日鯖波中休今庄宿泊里程五里 第 八 日新保中休敦賀宿泊里程六里 第 九 日山中中休海津宿泊里程七里十八町 第 十 日…………今津宿泊里程三里 第十一日小松中休堅田宿泊里程九里三十四町 第十二日…………大津宿泊里程三里二十六町 第十三日…………京都着里程三里 上洛に際し東近江を經しことも亦なきにあらず。慶應三年十一月前田慶寧の西上せし場合の如きは即ち是にして、宿泊は小松・大聖寺・越前金津・府中・今庄・近江木下・長濱・高宮・守山・大津に於いてせり。十二月その歸路に於いて亦東近江を取る。