江戸若しくは上方に對する藩の通信運搬事務は、初め早道飛脚足輕ありて信書を速達し、手木(テコ)足輕ありて貨物輸送人足の宰領となるの制なりき。萬治二年六月の規定によれば、金澤より江戸に達する早道飛脚は、夏期に於いて六十時(トキ)、冬期に於いて七十二時を要するを早飛脚とし、夏は八十四時・多は百八時を要するを中飛脚とし、夏は百二十時・冬は百四十四時を要するを常飛脚とせり。又金澤より京都に至るものは、夏は二十七時・多は三十六時を要するを早飛脚とし、夏は三十九時・冬は五十一時を要するを中飛脚、夏は六十時・冬は七十二時を要するを常飛脚とす。是等は事の緩急によりてその利用を異にし、給與せらるゝ路銀に多少の差あり。早飛脚と中飛脚とが規定時刻よりも早きときは賞賜し、早飛脚・中飛脚・常飛脚共に規定時數より遲るゝ時は路銀を減ぜらる。而してこゝに夏といふは三月朔日より八月晦日に至る間を指し、冬といふは九月朔日より二月晦日に至るをいふなり。此くの如く早道飛脚の利用せられたると同時に、亦民間に通信運送の業を創始するものありて、藩の公用たると士人の私用たるとを問はず、庶民も亦同じく之に委託するを得たるを以て、從來に比し非常の利便を感ずるに至れり。而してその京都に向かふものに京都中使あり、江戸に往來するものに江戸中荷持及び江戸三度飛脚ありき。 金澤・京都間の運送業者には、初め大使と稱するものありて、前田綱紀の初世に起り、多量の荷物を依託せらるゝを待ち之を差立てしが故に、その期日も決して一定することなかりき。後大使よりも少量の荷物を運搬するものを生じ、之を中使といへり。然るに元祿四年彼等は共同してその營業所を金澤御門前町に置き、五日・十日・十五日・二十日・二十五日・晦日を差立定日とするに及び大使の名を廢し專ら京都中使とのみいへり。この時中使は藩用の荷物三貫目以内を無賃輸送するの義務を負ひしが、後江戸中荷持及び江戸三度飛脚と同じく一貫目に減ぜられたり。