金澤・江戸間にも、亦綱紀の初世より大使と稱するものありて大量の荷物を運搬せしが、後少量の運搬者を生じ之を中荷持といへり。然るに元祿十年大使を中荷持と合同し、金澤十間町に取扱所を設くるに及び、專ら中荷持と稱することゝなり、その差立定日を毎月九日・十九日・二十九日とせり。この中荷持に對しては、藩用の荷物一貫目を無賃送達すべき義務を負はしめられき。 江戸三度飛脚の起れるは、既に江戸中荷持の特許を得たる後に在りしを以て、その營業を妨害せざる範圍に於いて、書信及び進物の如き極めて少量の物品を運送することを許可せられたるものなるも、元祿六年士人の荷物三荷までを運搬し得ることゝなり、同十三年以降亦藩用の荷物一貫目以内を無償運送すべき義務を負へり。三度飛脚の營業所は金澤尾張町に在りて、差立定日は四日・十四日・二十四日の三次とせり。 かくの如く江戸の通信運搬には、中荷持・三度飛脚兩種の營業者ありしが、正徳五年に至り、藩は一般商人の入札によりて運賃の低廉なるものを選びこの業を營ましむることゝせしに、小立野土取場の木屋平兵衞以下三人に落札せり。然るに藩吏彼等の受負價格が低廉に過ぐるを以て、到底之を永續するを得ざるの疑ありとなし、この新營業者をして博勞町に取扱所を開かしめ、二日・六日・十二日・十六日・二十二日・二十六日を差立日に定むると同時に、在來の營業者たりし中荷持・三度飛脚を合同せしめ、新たに江戸三度飛脚の名によりて取扱所を十間町に置き、九日・十九日・二十九日を以て出發せしむることゝせり。その後果して新營業者は、何等かの理由によりて營業を繼續し得ざりしが如く、舊營業者は益盛運に向かひ、差立定日を四日・九日・十四日・十九日・二十四日・二十九日の六回となし、明和四年には仲間二十五人の株立を以て從業し、安政元年にはその數を増して三十二人とせり。江戸三度飛脚の取扱所は、後更に尾張町に移り、仲間中より數人を選びて棟取の任に當らしめ、又江戸本郷五丁目にも事務所を設け、店員をこゝに派遣し、荷物の運搬は驛馬に附し、宰領をして之を監督輸送せしめたり。差立定日以外に於いて藩の急用あるときは別に早打を發し、家中諸士の依頼によるときは仕立飛脚を發することもありき。