十二文豪図書館二降臨ス ~EPISODES with 文豪とアルケミスト~

石川県立図書館 企画展

プロローグ

読み継がれる名作を生みだす才能に恵まれた人は、性格や生き方も個性的で魅力的。そんな文豪たちの”知る人ぞ知るエピソード”を紹介します。ドキリとする事件簿や人柄にじむ交遊録をきっかけに、文豪とその作品に触れてみませんか。

人気ゲーム「文豪とアルケミスト」から、文豪12人の等身大パネルが石川県立図書館に降臨。自筆原稿や署名本とともに、みなさまをお迎えします。

 

壁面では石川にゆかりの深い文豪たちの交友関係を、中心部では教科書でおなじみの文豪の意外な一面や趣味などを紹介します。

 

 

企画展コラボ来館スタンプ ※終了しています 

期間別に設置されるスタンプ3種を集めた方に先着で記念品のクリアファイルをプレゼント!

 

スタンプ設置期間

A 泉 鏡花  2022年12月6日(火)~12月28日(水)

B 徳田 秋声 2023年  1月4日(水)~ 1月22日(日)

C 室生 犀星   1月24日(火)~ 2月12日(日)

ABC同時設置   2月21日(火)~ 3月 5日(日)

スタンプ台紙配布場所・・・3F調べものデスク、1Fカフェ ハムアンドゴー

スタンプ設置場所・・・・・2F企画展示コーナー

記念品受取・・・・・・・・SF総合カウンター 1月24日(火)~3月 5日(日)

 

 

その1

泉 鏡花

 

いずみ きょうか 

[本名]泉鏡(きょう)太郎(たろう)。明治6年、石川県金沢市に生まれる。

9歳の時に母・鈴が死去。

母の死は美化され、鏡花の文学に大きな影響を与えた。

尾崎紅葉の小説に感激して明治23年に上京。

翌年紅葉に入門を許され、玄関番として住み込む。

明治28年に発表した「夜行巡査」「外科室」は観念小説の名称を得て、新進作家として認められる。

「夜叉ヶ池」「高野聖」など幻想的でロマンあふれる作品を数多く送り出した。

 

 

chronological record ※満年齢

1894(明27)年21歳  「義血俠血」を『読売新聞』に連載

1900(明33)年27歳  「高野聖」を発表

1903(明36)年30歳  元芸者のすずとの同棲を紅葉に𠮟責される

               紅葉の葬儀で門弟を代表して弔詞を読む

1907(明40)年34歳  「婦系図」を『やまと新聞』に連載

1917(大 6)年44歳  戯曲「天守物語」を『新小説』に発表

1939(昭14)年     肺腫瘍により死去(満65歳)

 

<その他の代表作>

「照葉狂言」「化鳥」「歌行燈」「日本橋」など

 

徳田 秋聲

 

とくだ しゅうせい 

[本名]徳田末雄(すえお)。明治4年、石川県金沢町に生まれる。

第四高等中学校(金沢大学の前身)在学中に父が亡くなり、退学。

明治25年に小説家になろうと上京するが、挫折する。

泉鏡花の「義血俠血」を読んで刺激され、再び上京。

明治28年鏡花の勧めで尾崎紅葉を訪問し、門下に入る。

大正15年に妻が急死した後、作家志望の山田順子と親密になり、順子をモデルに2年間で約30編の小説を書いた。

昭和16年には、太平洋戦争開戦目前にして情報局の干渉により最後の長編小説「縮図」の筆を折る。

 

 

chronological record ※数え年

1899(明32)年29歳  紅葉の推薦で読売新聞社に入社

1900(明33)年30歳  「雲のゆくへ」を『読売新聞』に連載

               紅葉門下の四天王として認められる

1911(明44)年41歳  夏目漱石の推薦で「黴」を『東京朝日新聞』に連載

1939(昭14)年69歳  「仮装人物」により第1回菊池寛賞を受賞

1941(昭16)年71歳  短編集「和解」刊行

1943(昭18)年     肋膜癌により死去(数え73歳)

 

<その他の代表作>

「新世帯」「あらくれ」「光を追うて」「縮図」など

 

島田 清次郎

 

しまだ せいじろう

 明治32年、石川県石川郡美川町に生まれる。

2歳で父を海難事故で亡くし、母の実家で育つ。

大正8年に20歳で刊行された「地上第一部」は、同世代の感性で同時代の人物を主人公に描いた作品として、青年たちの共感を得て、熱狂的に受け入れられ、空前の大ベストセラーとなり、欧米に単身で外遊に出る。

 しかし、大正12年に海軍将校の令嬢とスキャンダル事件を起こすと、マスコミに叩かれ、出版社との関係も悪化し、作家生命を絶たれた。

 

 

chronological record ※満年齢

1914(大 3)年15歳   処女作「若芽」を同人誌『潮』に発表

1917(大 6)年18歳  自伝的長編「死を超ゆる」を『中外日報』に連載

1922(大11)年23歳  ファンと結婚(入籍せず。この年のうちに破綻)

1923(大12)年24歳  スキャンダル事件により事実上作家生命を絶たれる

1924(大13)年25歳  夜中に挙動不審として警察に逮捕、精神病院に収容される

1930(昭 5)年     肺結核により死去(満31歳)

 

 

 

<その他の代表作>

「我れ世に勝てり」「我れ世に敗れたり」など

 

中野 重治

 

なかの しげはる

明治35年、福井県に生まれる。

大正8年、第四高等学校(金沢大学の前身)に入学。

四高校友会誌『北辰会雑誌』の編集に携わり、詩や小説などを発表するようになる。

大正12年に友人の紹介で室生犀星を訪ね、以来師と仰ぐ。

プロレタリア文学運動の中心となるが、政府による社会主義や共産主義的な思想に対する弾圧が高まり、複数回逮捕される。

出所にあたり共産主義的思想から転向したが、その後再び活動するようになり、生涯にわたり精力的に執筆を続けた。 

 

chronological record ※満年齢

1926(大15)年24歳  雑誌「驢馬」を掘辰雄らと創刊

1932(昭 7)年30歳  プロレタリア文学運動への弾圧で逮捕される

1955(昭30)年53歳  「むらぎも」で毎日出版文化賞を受賞

1960(昭35)年58歳  「梨の花」で読売文学賞を受賞

1969(昭44)年67歳  「甲乙丙丁」で野間文芸賞を受賞

1978(昭53)年76歳  文学上の功績により朝日賞を受賞

1979(昭54)年     胆嚢癌により死去(満77歳)

 

 <その他の代表作>

「中野重治詩集」「歌のわかれ」「斎藤茂吉ノオト」など

 

室生 犀星

 

むろお さいせい

[本名]室生昭(てる)道(みち)。明治22年、石川県金沢市に生まれ、生後間もなく真言宗の寺の養子となる。

明治35年高等小学校を中退し、12歳で金沢地方裁判所に勤めると、上司から俳句の手ほどきを受ける

句作や詩作を続け20歳の頃上京。

大正7年刊行の「愛の詩集」「抒情小曲集」で詩人として高い評価を受ける。

萩原朔太郎、芥川龍之介ら同時代の作家たちと交流を深めながら執筆活動を行い、小説家としても才能を示した。

 

 

chronological record ※満年齢

1918(大 7)年29歳  「愛の詩集」「抒情小曲集」を刊行

1923(大12)年34歳  関東大震災により金沢に避難

1935(昭10)年46歳  「あにいもうと」で文芸懇話会賞を受賞

1958(昭33)年69歳  「杏っ子」で読売文学賞を受賞

1959(昭34)年70歳  「我が愛する詩人の伝記」で毎日出版文化賞、

「かげろふの日記遺文」で野間文芸賞を受賞

1962(昭37)年     肺癌により死去(満72歳)

  

<その他の代表作>

「幼年時代」「性に眼覚める頃」「随筆 女ひと」「蜜のあはれ」など

 

芥川 龍之介

 

あくたがわ りゅうのすけ

明治25年、東京府に生まれ、生後間もなく母親が精神を患い、母方の実家の養子となる。

10歳頃から本に対する関心が高まり、貸本屋や図書館に足繁く通う。                                                        

「羅生門」「鼻」「芋粥」など短編を中心に多くの作品を執筆し、常に脚光を浴びる人気作家であったが、次第に健康を害し、神経をすり減らしていく。

さらに身内の不幸も重なり、自ら命を絶った。

残された遺稿には「将来に対する唯ぼんやりした不安」が自殺の原因であるとつづれられていた。

 

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

 

chronological record ※満年齢

1914(大 3)年22歳  処女作「老年」を発表

1916(大 5)年24歳  「鼻」が夏目漱石に評価される

1917(大 6)年25歳  第一短編集「羅生門」を刊行

1919(大 8)年27歳  大阪毎日新聞社に作家として入社し執筆活動に専念

1924(大13)年32歳  室生犀星の招きで金沢に来訪

1926(大15)年34歳  胃腸・神経の病が悪化し神奈川県にて療養

1927(昭 2)年     服毒自殺により死去(満35歳)

  

<その他の代表作>

「地獄変」「蜘蛛の糸」「藪の中」「河童」など

 

 【鏡花と秋聲、二人は不仲だったのか!?】

 

鏡花と秋聲は尾崎紅葉の弟子だった。

ともに金沢に生まれ、年も近い二人だったが、師匠に対する考え方の違いから対立することもあり、仲が良かったとは言えなかった。

 

鏡花は紅葉を「神のごとく」敬い、書斎には紅葉の全集と写真を飾っていました。

一方秋聲は、「紅葉さん」と呼び、紅葉と話すときも対等な口調でした。

臨終の紅葉の取り乱した様子を、明治44年に秋聲が「黴」で生々しく書いたため、二人は不仲となっていました。

そんなある日、改造社社長の山本実彦が『現代日本文学全集』の「尾崎紅葉集」の出版にあたり、秋聲と鏡花に相談する機会を設けました。

その時、秋聲の発言に鏡花が腹を立てて、火鉢を飛び越えて秋聲をなぐったと伝えられています。

時が流れ昭和8年の春、鏡花の弟・斜汀が自宅を差押さえられて、旧知の秋聲を頼ってきました。

秋聲の経営するアパートに入居した斜汀はじきに体調を崩し、敗血病で死去。

重体の連絡、病院や告別式での再会を通して鏡花と秋聲の長年の不和が解消されていく様が秋聲の小説「和解」に書かれています。

とはいえ、それ以降も鏡花は秋聲に対してよそよそしい態度だったそうです。

 

明治36年11月2日 紅葉の葬儀にて(右から秋聲・鏡花・柳川春葉)

(画像提供:徳田秋聲記念館)

 

火鉢を跳び越えた、は本当の話なのでしょうか?

 二人の喧嘩について記した3つの文章をめぐって、今もなお様々な解釈が生まれています。

・ 北村薫『中野のお父さんは謎を解くか』文芸春秋,平成31年

 ・ 冬扇坊「ちゃぼの蹴合い」(『北国新聞』令和3年12月16日)

 

二人の友人の言葉

某綜合雑誌社の社長から、こんな話を聞いたこともあった。

何か新たな出版計画だったかに事寄せて、秋声と二人で鏡花を訪ね、たいそう睦まじく懐旧談など弾んでいるうち、事たまたま紅葉に及ぶと、いきなり鏡花が、間に挟んでいた径一尺あまりの桐の胴丸火鉢を跳び越し、秋声を押し倒して、所嫌わずぶん撲ったのが、飛鳥のごとき早業で、

里見弴「二人の作家」

(収録『日本の文学 28 』中央公論社,昭和43年)(初出:昭和25年)

 

里見 弴 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

 

鏡花の友人の言葉

一節の実話は、わたくしも直接に山本実彦から聞いた。

仲裁のつもりが飛んだ喧嘩の上塗りをさせたと苦笑した山本は、その時あの小男が勢猛にいきなりつかみかかった有様をさながら「ちゃぼの蹴合ひ」と表現したものであった。

佐藤春夫「ちゃぼの蹴合ひ」

(収録『定本 佐藤春夫全集第24巻』臨川書店,平成12年)(初出:昭和30年)

 

佐藤 春夫 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

 

秋聲の友人の言葉

二人が改造社の山本の部屋で、紅葉の作品のことで山本を交じえて話し合っているうちに、秋声の言ったことが鏡花を怒らせ、鏡花がいきなり秋声の頬に平手打ちをくわせたので、山本が止めに入って大騒ぎをしたということだった。

秋声はむかしから師の紅葉に対しては批判的だったので、紅葉を神のように思っている鏡花が、かねがね秋声をこころよく思わず、二人は不仲だったので、たまたま秋声の言ったことが、鏡花の日ごろの不満を爆発させたのだろう

木佐木勝「大正15年10月27日(水)」

(収録『木佐木日記 第2巻』現代史出版会,昭和50年)※木佐木勝は改造社の編集者

 

正宗 白鳥 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

 

その時の様子を書いた3つの文章からは鏡花が秋聲をなぐったことは事実と考えてよさそうですが、鏡花が火鉢を跳び越えたのかどうかは確定できません。

当の二人がこの件について何も書き残していないため、真実ははっきりしないのです。

 

 【島田が頼れるのは、郷土の大先輩作家である秋聲だけだった】

 

海軍将校令嬢とのスキャンダル事件を起こし、ピンチに陥った島田。

53歳(数え年)の秋聲は24歳(満年齢)の島田のためにひと肌ぬいだ。

 

大正12年4月16日『北陸毎日新聞』

 

大正12年4月14日『北陸毎日新聞』

 

大正12年4月14日、島田が海軍将校の娘を誘拐監禁して逮捕された、というスキャンダルが各新聞で報じられました。

同郷の後輩作家である島田から、将校との間を取り持ってもらいたい、と依頼された秋聲は、将校に会いに行ったり、弁護士を紹介したりと力になろうとしました。

事件そのものは、令嬢から島田に宛てた熱烈なファンレターが公開されると、体面を重んじた将校側が告訴を取り下げ、和解となりました。

 しかし、以前から傲慢な態度を問題視されていた島田はこの事件を機に出版社から見放され、作家生命を絶たれました。

秋聲は、出版社や作家たちに相手にされなくなった島田を叱責しつつも何度か自宅に泊めるなど、島田に対して同情的な態度でした。

同年島田は不審人物として警察に連行され、精神病院に入院すると、昭和5年に亡くなるまで精神病院を出ることはありませんでした。

病院では「世話してくれる先輩は本郷森川町一番地の徳田秋聲」と語ったそうです。

 

 

【犀星と中野、師弟の絆はいつまでも】

 

中野は、犀星を文学上および人生観上の師と仰ぎ、自身の作品にも主人公の理解者として登場させていた。

犀星は、中野たちの活動を終生に渡って見守った。

 

大正12年、関東大震災により地元金沢に避難していた犀星のもとを、中野が訪問したことから二人の関係は始まりました。

第四高等学校(金沢大学の前身)を卒業し、東京帝国大学(東京大学の前身)に進学した中野は、東京に戻った犀星のもとを訪れるようになり、同様に犀星のもとへ集った他の文学青年たちとともに、雑誌『驢馬』を創刊します。

犀星は金銭的な支援は行ったものの、編集方針には口を出さずに見守りました。

 しかしその後、中野をはじめ『驢馬』に参加していた若者たちの多くが、プロレタリア文学運動に対する弾圧で次々と投獄されてしまいます。

2年の獄中生活を終え、中野が犀星宅を訪問すると、恐ろしいことはもうしないよう犀星の夫人に諭されましたが、それを聞いた犀星は「いらぬこと、いうな……」と夫人をたしなめ、かつてと同じく中野の考えに口出しをすることはありませんでした。

出会いから最期の別れまで二人の交友は途絶えることなく、中野は犀星の葬儀委員長まで務めました。

 

『驢馬』

創刊号,大正15年4月〈復刻版〉

所蔵:石川県立図書館

 

金沢の旧制高校から東京帝大に入学した主人公・片口安吉のモデルが中野、片口の助言者・斎藤鼎のモデルが犀星と言われている。

 

 

中野重治『むらぎも』大日本雄弁会講談社,昭和29年

所蔵:石川県立図書館

 

 【詩人・犀星と小説家・芥川-互いを尊敬しあう友情-】

 

近所に住み、俳句を語り合い、共に骨董を愛で、親交を深めていった二人。

犀星は年下の芥川の活躍にコンプレックスを持ちつつもその創作活動に影響を受け、芥川は犀星の詩人としての感性に尊敬を抱いていた。

 

関東大震災によって犀星が東京から金沢へと帰郷すると、芥川はそのことを惜しみ、犀星が戻ってくることを心待ちにしていました。

大正13年、犀星は芥川をはじめ友人たちを金沢へ呼び歓待しました。

芥川のために、当時兼六園にあった三芳庵の別荘を特別に借り、宿として用意。

芥川はこの宿を非常に気に入り、部屋のつくりや周囲を木々や流れ落ちる滝に囲まれた風流の素晴らしさを、友人宛の手紙に書き残しています。

野田山を登り市中を眺め、料理屋の北間楼で友人たちを交えて俳句を作る会を開き、短い金沢滞在を心から楽しみました。

 中でも芥川が喜んだのが、尾張町の森八で食べたお汁粉でした。

犀星はその様子を、「芥川君はこんな美味い汁粉はたべたことがないと言って、菓子の伝統の古い金沢を褒めていた」と残しています。

甘いものが好きな芥川はお汁粉ばかりではなく、滞在中毎日のように菓子を口にし、友人たちへの土産として森八の落雁・長生殿を送りました。

 

長生殿(画像提供:株式会社森八)

 

三芳庵別荘(平成20年ごろ)(画像提供:兼六園三芳庵)

 

 芥川の突然の死…犀星は追悼文を一切書かず

 昭和2年、芥川は自宅で睡眠薬を飲み自殺します。

犀星は芥川の葬儀に参列しましたが、新聞や雑誌から依頼された追悼文が書けないほどの衝撃を受けました。

 尊敬する文学者を失った喪失感、死を選ぶほど苦しんでいたことに気がつけなかったことへの後悔。

そんな鈍感な自分を芥川が軽蔑していたのではないかと犀星は思い悩み、己の文学を根本から見つめ直します。

芥川の死は犀星の作品を大きく飛躍させることになったのでした。

 

原稿「芥川龍之介氏を憶ふ」

(所蔵・画像提供:室生犀星記念館)

 

犀星が芥川について書いたのは、その死から約8ヵ月後のことでした。「芥川龍之介氏を憶ふ」は『室生犀星全集』他で読むことができます。

 

その2

江戸川乱歩

 

 

えどがわ らんぽ   

[本名]平井(ひらい)太郎(たろう)。明治27年、三重県に生まれる。

大正12年「二銭銅貨」でデビュー。

以後「人間椅子」などの短編や、名探偵・明智小五郎が活躍する探偵小説を発表。

また、少年探偵団シリーズは子どもたちの心をつかんだ。

ミステリの研究にも力を入れ、海外ミステリの紹介や、日本の推理作家の発掘に努めた。

 

 

chronological record  ※満年齢

1947(昭22)年 53歳    探偵作家クラブを創設し、初代会長となる

1952(昭27)年 58歳    評論集「幻影城」で探偵作家クラブ賞を受賞

1954(昭29)年 60歳    江戸川乱歩賞を創設

1961(昭36)年 67歳    紫綬褒章を受章

1963(昭38)年 69歳    日本推理作家協会を創設、初代理事長になる

1965(昭40)年       脳出血により死去(満70歳)   

 

<その他の代表作>

「心理試験」「屋根裏の散歩者」「芋虫」「黒蜥蜴」など

 

【木馬の友、萩原朔太郎】

乱歩は萩原と昭和5年頃から交流がありました。

一緒に浅草のメリーゴーランドに乗ったり、浅草公園ではゆで卵でお茶を飲み、通行人を眺めながら思い出話をしたりしました。

萩原は乱歩の「パノラマ島奇談」を、乱歩は萩原の「死なない蛸」と「猫町」を高く評価していました。

 

 

【乱歩は引越し魔】

乱歩は一生のうちで46回も引越しを繰り返しました。

三重県名賀郡名張町の生家から東京府東京市豊島区池袋の終の住処まで、暮した家すべてについて、手書きの地図と間取り入りで、記録しました。

「貼雑年譜」は、乱歩が自分に関する記事などをアルバムにして年代順に貼付けたスクラップブックです。

 

 

坂口 安吾

 

 

さかぐち あんご

[本名]坂口炳五(へいご)。明治39年、新潟県に生まれる。

幼少期より反抗的な態度が目立ち、中学校では学業不振と出席不足で落第する。

その後、仏教を究めようと決意し、東洋大学印度哲学科に入学。

卒業後同人誌を作り、昭和6年「風博士」で文壇に認められると、昭和21年には「堕落論」が反響を呼ぶ。

同年発表の「白痴」で太宰治、織田作之助らとともに脚光をあび、無頼派・新戯作派と呼ばれる。

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

 

chronological record  ※満年齢

1927(昭 2 )年 21歳   一日睡眠4時間の生活を続け、神経衰弱に

1935(昭10)年 29歳   徳田秋聲の文学を批判したのをきっかけに尾崎士郎と知り合う

1948(昭23)年 42歳   「不連続殺人事件」で探偵作家クラブ賞を受賞

1949(昭24)年 43歳      睡眠薬を多量に服用し、幻聴や幻視のため入院

1950(昭25)年 44歳     「安吾巷談」で、文芸春秋読者賞を受賞

1955(昭30)年           脳出血により死去(満48歳)

 

<その他の代表作>

「二流の人」「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」など

 

【安吾、十六歳】

落第の恐れがあった中学生の安吾は、試験の時に教師が当案を配り終えたとたん、白紙の答案を頬に微笑を浮かべながら提出。

ついに放校されることになり、学校の机のふたの裏側に「余は偉大なる落伍者となつていつの日か歴史の中によみがへるであらう」と彫ったそうです。

転校した中学校でも授業をさぼり、野球・水泳・陸上競技に熱中。

野球は選手でピッチャー、全国中等学校陸上競技会では走高跳で優勝、相撲大会にも参加して入賞するなど、スポーツは得意でした。

 

【「この探偵小説には私が懸賞をだします」】

安吾は熱狂的な探偵小説マニアで、昭和22年から翌年にかけて雑誌『日本小説』に小説「不連続殺人事件」を連載しています。

犯人さがしの懸賞を安吾自らが出し、毎回の附記では、一般読者のみならず江戸川乱歩など人気の推理作家の名前をときに挙げながら、刺激的な挑戦文を掲載しました。

乱歩はその力作ぶりと前代未聞のトリックを絶賛し、この作品は、高木彬光の「刺青殺人事件」と争った結果、探偵作家クラブ賞を受賞しました。

  

第1回「犯人を推定した最も優秀な答案に、この小説の解決篇の原稿料を呈上します」から始まり、最終回「愈々、今回をもって、皆さんの解答をいただく順となりました」と続いた刺激的な附記。結果、複数の読者が正解を当て安吾を喜ばせた。

 

『日本小説』2巻3号,

 日本小説社,昭和23年3月(所蔵:石川県立図書館)

 

志賀 直哉

 

 しが なおや

明治16年、宮城県に生まれる。

明治43年、東京帝国大学(東京大学の前身)在学中に武者小路実篤・里見弴らと同人誌『白樺』を創刊する。

大正元年に父との不和から広島県尾道市に移住。

自我の絶対的な肯定を根本とする姿勢を貫き、父親との対立など実生活の問題を見据えた私小説を多数発表。

「小説の神様」と呼ばれた。

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

 

chronological record   ※満年齢

1901(明34)年 18歳     足尾銅山鉱毒被害地の視察を計画し父と衝突

1902(明35)年 19歳     中等科で落第し武者小路実篤と同期になる

1907(明40)年 24歳     女中との結婚が父の反対により実現せず

1923(大12)年 40歳     関東大震災を機に『白樺』を終刊

1949(昭24)年 66歳     文化勲章を受章

1971(昭46)年        肺炎により死去(満88歳)

 

<その他の代表作>

「城の崎にて」「和解」「小僧の神様」「暗夜行路」など

 

【志賀の父親が四高で働いていた!】

明治21年3月から22年秋まで、志賀の父・直温は第四高等中学校(金沢大学の前身)に会計主任として単身赴任で勤務していました。

名簿には、西田幾多郎(哲学者)・藤岡作太郎(国文学者)・木村栄(天文学者)など、石川の偉人たちの名前が生徒として並んでおり、彼らと志賀の父親が同じ時に同じ学校にいたのは面白い偶然が感じられます。

そのころ6歳の志賀は学習院初等科に在籍していました。

  

【「実にたのしい二人は友達」】

志賀の最も親しい友人は武者小路実篤でした。志賀と武者小路は高等科に上がってからお互いの家を行き来し、手紙で読んだ本の感想や近況を報告し合う仲になりました。

その後も志賀が女中と結婚しようとして父親の反対で別れさせられた時に一緒に泣いたり、雑誌『白樺』を創刊したり、経済的危機におちいった武者小路を志賀が援助したりと、長い友情関係を築きました。

志賀が亡くなる前年に武者小路が送った手紙には、次のように書かれていました。

何年たっても君は君僕は僕

よき友達持って正直にものを言う

実にたのしい二人は友達

 

 

太宰 治

 

 

だざい おさむ

[本名]津島修治(つしましゅうじ)。明治42年、青森県に生まれる。

尋常小学校1年時から作文が得意で、その才能は教師を驚かせるほどだった。

昭和8年、同人誌『海豹』に「魚服記」「思ひ出」を発表し、好評を博す。

昭和11年、最初の作品集「晩年」を刊行、昭和22年に発表した「斜陽」はベストセラーとなり、「斜陽族」という流行語を生んだ。

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

 

chronological record   ※満年齢

1927(昭 2 )年 18歳   芥川龍之介の自殺に大きな衝撃を受ける

1929(昭 4 )年 20歳   最初の自殺未遂事件を起こす

1935(昭10)年 26歳   「逆行」が第1回芥川賞候補になるも落選

1938(昭13)年 29歳   井伏鱒二の紹介で石原美知子と結婚

1944(昭19)年 35歳   「津軽」を発表

1948(昭23)年      愛人の山崎富栄と入水自殺し(満38歳)、死後、

「人間失格」「桜桃」など刊行

 

<その他の代表作>

「富岳百景」「走れメロス」「お伽草紙」「ヴィヨンの妻」など

 

【顔に似合わぬ大食漢】

太宰はその大食漢ぶりで有名でした。

弘前高校時代、弁当とともに大好物の味噌汁を魔法瓶に3杯分入れて通学していたそうです。

おでん屋では、豆腐→がんもどき→大根→また豆腐、という順序で際限も無く食べて、一緒に食事をした檀一雄(美食家で知られる作家仲間)を驚かせました。

(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

 

【独自のファッションセンス】

当時としては高身長・美男子で、独自のファッションセンスを持っていました。

地元の弘前高校に入学した当初は、編上靴に長いマントを羽織って通学し、当時一般的だった

弊衣破帽(ぼろぼろの服と破れた帽子)に高下駄のバンカラスタイルとは大きく異なっていました。

 

【芥川賞を熱望】

若い頃から芥川の大ファンで、芥川賞を受賞することを熱望し、昭和10年26歳の時に「逆行」が芥川賞候補になるも落選します。

当時パビナール(鎮痛剤)中毒になっていた太宰は、選考委員をしていた川端康成に作品そのものよりも生活について言及され、逆上します。

文芸紙上で激しく反論し、「刺す。そうも思った。大悪党だと思った。」と書いています。

 

菊池 寛

 

 

きくち かん

[本名]菊池寛(ひろし)。明治21年、香川県に生まれる。第一高等学校(東京大学の前身)を中退後、友人家族の支援を得て、京都帝国大学(京都大学の前身)に進学し卒業。

大正7年に「無名作家の日記」「忠直卿行状記」を発表し小説家として地位を確立すると、大正12年には文芸春秋社を設立し、実業家としても成功をおさめた。

文芸家協会の設立など文学者の地位向上にも努め、昭和10年に芥川龍之介賞と直木三十五賞、昭和14年に菊池寛賞を設けた。

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

 

chronological record  ※満年齢

1917(大 6 )年 29歳   戯曲「父帰る」を発表

1920(大 9 )年 32歳   『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』に「真珠夫人」を連載

山本有三らと劇作家協会を結成

1921(大10)年 33歳   徳田秋聲、加能作次郎らと小説家協会を設立

1939(昭14)年 51歳   菊池寛賞を創設

1948(昭23)年      狭心症により死去(満59歳)

 

<その他の代表作>

「屋上の狂人」「恩讐の彼方に」「藤十郎の恋」など

 

【盗難事件に巻き込まれ東大退学】

第一高等学校の卒業間近に、親友に頼まれて深く考えずにマントを質屋に持っていった菊池は、盗難事件の犯人と疑われてしまいます。

実は親友が他学生のマントを勝手に持ち出したのですが、名乗り出ることのできない意気

地のない親友を見て、菊池は濡れ衣を着たまま退学の道を選んだのでした。

 

【雑誌『文芸春秋』創刊】

読者や編集者に気兼ねなしに、自由な気持ちで書きたいものを書ける雑誌を作りたいと考えた菊池は、文芸春秋社を設立し、『文芸春秋』を創刊。

まだ売れていなかった川端康成や横光利一の作品を掲載して、後進のための作品発表の場を作ります。

『文芸春秋』は定価が当時の雑誌の約10分の1で、原稿料は払うけれど支払いの時期と金額は菊池に一任、というユニークな雑誌でした。

 

【社内遊戯禁止令】

菊池は興味を持ったものにはのめりこむタイプでした。

競馬・卓球・麻雀・将棋と数多くの趣味を持っていました。

しかし、菊池の影響で、文芸春秋社内でも勤務中に将棋や卓球をする社員が続出し、社内

での遊戯禁止令を出す騒ぎに。

しかし堪えきれず、菊池自身が一番に禁止令を破ったのでした。

 

萩原 朔太郎

 

 

はぎわら さくたろう

明治19年、現在の群馬県に生まれる。

開業医の長男として経済的に恵まれた生活を送るも、幼いころから病弱で神経質だった。

17歳のころ「みだれ髪」に強い影響を受け、短歌を作り始める。

その後、室生犀星や北原白秋との関わりを経て、口語自由詩という新しい詩の形を作りあげ、詩人として新領域を開拓した。

晩年は評論、随筆など詩以外の作品を中心に活躍した。

 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

 

chronological record   ※満年齢

1903(明36)年 18歳     雑誌『明星』に短歌を投稿

1913(大 2 )年 28歳     北原白秋主宰の雑誌『朱欒』に詩を投稿 

同じく詩を掲載していた室生犀星と親交が始まる

1917(大 6 )年 32歳         詩集「月に吠える」を刊行

1925(大14)年 40歳         詩集「純情小曲集」を刊行

1942(昭17)年              肺炎により死去(満56歳)

 

<その他の代表作>

「青猫」「氷島」「猫町」など

 

 

【室生犀星、第一印象は最悪】

犀星の詩に感動した萩原が手紙を出したことから二人の交流が始まりました。

後によき友人となる二人ですが、大正3年に前橋で初めて顔を合わせたときの第一印象は互いに最悪なものでした。

萩原は犀星の美しい詩から線の細い美少年をイメージしていましたが、現実の犀星はがっちりした体つきの小男で、垢ぬけしない文学青年に見えました。

反対に犀星は、トルコ帽をかぶりタバコをくわえていた萩原に「何て気障な虫唾の走る男」と感じました。

 

【音楽への熱意】

萩原は音楽に熱心で、特に好んでいたのがマンドリンとギターでした。

特にマンドリンは当時まだ珍しく、マンドリン演奏の先駆者である比留間賢八や田中常彦から直接指導を受けます。  

大正4年には音楽愛好家を集めて「ゴンドラ洋楽会」を結成し、演奏の指導、作曲、指揮を行い、群馬県各地で演奏活動を行いました。

晩年には娘にマンドリンを弾かせ、自分はギターを弾いて楽しんだそうです。

 

【手品は下手の横好き】

萩原は若い頃から手品に興味を持っており、特に晩年は作家仲間に披露するほど愛好していました。

しかし、その腕前はひどいものだったらしく、所属していた「東京アマチュア・マジシャンズ・クラブ」の柳沢義胤が手品の指導をした時には「これほど物覚えの悪い人に今までぶつかったことがない」と言われるほど。

萩原の死後、書斎の鍵のかかった机の引き出しから出てきたのは書きかけの原稿…ではなく数々の手品の道具でした。

 

展示の様子

ガラスケース展示

【坂口安吾「不連続殺人事件」連載誌】

友人作家たちと探偵小説の犯人当てゲームに興じるものの、最も正答できないのは安吾であった。「きみたちには、ぜったい犯人のあたらない探偵小説を、そのうち書いてみせるよ」と言って、戦後に書いたのが「不連続殺人事件」。安吾は依頼もないのに「探偵小説を書いたから、のせてくれないか」と『日本小説』の編集長を驚かせた、という伝説も残っている。

 

【坂口安吾「小林さんと私のツキアイ」】自筆原稿

文芸評論家・小林秀雄の全集の月報のために執筆されたもの。安吾と小林は長い間交流があった。安吾は4歳年上の小林を批判することもあったが、青年に読ませたい愛読書として小林の評論をあげるなど敬意も持っていた。この原稿では、二人が1931年夏に初めて会った時「頭髪ボウボウ、あのときは人相がよくなかったね」と、小林との思い出をユーモラスに書いている。 戸川保宣氏 所蔵

 

【江戸川乱歩の直筆色紙】

「うつし世はゆめ よるの夢こそまこと」は、乱歩がサインを求められたときによく書いた言葉。ポオとデ・ラ・メアの言葉から乱歩が作った。乱歩のサイン色紙に送る相手の名前が書かれているのは珍しい。 戸川安宣氏 所蔵

この世の現実は、私には幻—単なる幻としか感じられない。これに反して、夢の世界の怪しい想念は、私の生命の糧であるばかりか、今や私にとっての全実在そのものである。(エドガー・アラン・ポオ)

わが望みは所謂リアリズムの世界から逸脱するにある。空想的体験こそは、現実の経験に比して更らに一層リアルである。(ウォルター・デ・ラ・メア)

 

【犀星と芥川の署名本】

芥川が自著に署名して犀星に贈り、その後、犀星が石川県立図書館に寄贈した本。芥川と犀星の署名が1冊に記されている大変貴重なもの。これら署名本のことは犀星のエッセイの中で触れられており、現在まで3冊が確認されている。

芥川君から贈られた十二三冊の署名入りの小説随筆集だけは、私が所蔵するよりはと思ひ、故郷金澤の縣立図書館に寄付をし永代保存方を依頼した  室生犀星『慈眼山随筆』

「湖南の扇」が出来てゐたのでせかせかとそれに署名して呉れた  室生犀星『印刷庭苑』

 

【繪草子龍潭譚】

鏡花の短編「龍潭譚」に、僧侶でイラストレーターの中川学が挿絵を付けた絵本。全頁フルカラー、表紙には錫箔、題字は銀箔押しで、限定制作の豪華本。金属でありながら錆びることがなく、とても柔らかい素材である錫を表紙に使用することで、手に取り読むたびに自然に曲がったり破れたりする変化を楽しむことができる凝った装丁。

最初はモノクロの世界で始まって途中でカラフルになり、またモノクロに戻るんですよ。なぜかというと、千里(※)は現実世界ではつまらない思いをしている子だからなんです。つまらない現実世界はモノクロで表していて、異世界ではバッと色がつけることにしました。※主人公の名前  中川学インタビューより(繪草子「龍潭譚」公式サイト)

龍潭譚 泉鏡花‖著 中川学‖挿絵 今泉版画工房 2011.8

印刷庭苑:犀生随筆集 室生犀星‖著 竹村書房 1936

大導寺信輔の半生・手巾(ハンケチ)・湖南の扇:他十二篇 芥川竜之介‖作 岩波書店 1990.10

新しいMY SHOSHOのタイトル