鉄道タイムトラベル~2024年春、いよいよ北陸新幹線県内全線開業!~

石川県立図書館 特別展 (2023.6.20~9.10)

もくじ

    1. 鉄道の誕生
    2. 日本の鉄道、いざ出発!
    3. ついに石川にも鉄道が!
    4. 馬から電気へ-県内の私設鉄道の進化
    5. 北前船から鉄道へ-あらゆる物が鉄道で運ばれた時代
    6. 1940年ごろの石川県鉄道マップ
    1. クルマも飛行機も-時代とともに増える移動手段
    2. 奥能登ロマン
    3. 『旅程と費用』にみる1969年当時の能登旅行
    4. 雑誌『旅』
    5. 変わりゆく鉄道路線
    6. 2014年ごろの石川県鉄道マップ
    1. 北陸新幹線の金沢開業
    2. 新幹線でにぎわう県内と地域の足
    3. 目前にせまる!県内全線開業
    4. さらに石川県を盛り上げよう!
    1. 行き先は「夢の国」!
    2. 沿線物産案内で知る石川の産業
    3. 鉄道とともに発展-石川の産業
    4. 路面電車-かつての金沢市民の足
    1. 雷鳥からサンダーバードへー北陸と関西を結ぶ主役
    2. 新幹線と日本の発展
    3. もしものときの、たよれる存在
    4. みんな大好き!W7・E7系
    1. 鉄道から小説へ
    2. 鉄道から紀行へ
    3. 鉄道からミステリへ
    1. 運転士さんの仕事
    1. 北陸新幹線の車輪
    2. 新幹線の車輪に見る超絶技巧
    1. 全体の様子
    2. パネル展示
    3. ガラスケース展示

はじめに

2024年春、北陸新幹線は小松駅・加賀温泉駅が新たに開業し、金沢から敦賀へつながります。明治以降、石川県では鉄道が次々に整備され、人とモノとがつながることで地域が発展してきました。交通網の発達がもたらした産業の発展や暮らしの変化を、なつかしい資料とともにご紹介します。

これから石川は新幹線でどう変わる?鉄道でタイムトラベル♪

鉄道の歴史(明治~昭和前期)

鉄道の誕生

世界で最初に鉄道が走ったのは、蒸気機関はじまりの地でもあるイギリス。1825年にストックトン~ダーリントン間に開業しました。その後、アメリカとヨーロッパを中心に広がっていきます。

そのころの日本は鎖国をしていた時期でしたが、来日した外国人や海外へ行った日本人によって、鉄道の存在が伝わりました。日本の開国のきっかけを作ったペリーは機関車の模型を持参して、日本に鉄道を紹介したそうです。

また、福沢諭吉は海外で見聞きした鉄道の役割を著書『西洋事情』で伝えています。それによると鉄道で結ばれた地域どうしで産物がやりとりされるようになると、地域によって大きく異なっていたモノの価格の差が小さくなったり、都会と田舎の行き来が便利になることで人づきあいにも変化が見られたりしたそうです。また、旅先で家族の病気の知らせがあった時に、死に目に間に合わなかったという話を聞かなくなったとも伝えています。

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日本の鉄道、いざ出発!

日本で初めて旅客鉄道が走ったのは、明治時代に入ってすぐでした。東京~横浜間、東京~京都間、京都~神戸間、琵琶湖~敦賀間の建設が決定されてから3年後の1872年(明治5)、多くの人の苦労により、まずは新橋~横浜間(約29km)が開業、蒸気機関車が走りはじめました。当時は、上等・中等・下等の3種類の席があり、下等の運賃は37銭5厘で、白米10㎏と同じくらいかかる特別なものでした。

翌年には貨物列車の運行も始まりますが、日本の鉄道は一部の限られた地域にしかなく、石川をふくむ日本中を鉄道が走るまでには、まだまだ時間が必要でした。

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ついに石川にも鉄道が!

日本に最初の鉄道が開業すると、北陸地方でも民間の会社を中心に鉄道建設の動きが発生。柳ケ瀬(滋賀県)から富山を経て新潟港を結ぶ東北鉄道会社、武生(福井県)から石川を経て富山を結ぶ北陸鉄道会社が起こります。けれども、どちらも失敗に終わり、北陸に鉄道を走らせる夢はなかなか実現しませんでした。

ついに、石川の鉄道計画が動きだすのは、1892年(明治25)のこと。国が建設するべき鉄道を決めた鉄道敷設法が発布され、北陸地方を横断する官設鉄道が作られることになります。翌年には敦賀(福井県)から石川に向かう路線が着工。そして1897年(明治30)に、北陸線福井~小松間が、その翌年には小松~金沢間、金沢~高岡間が開業します。小松~金沢間(約28km)の運賃は3等(下等に相当)が20銭で、当時の白米約2㎏と同じでした。約30年前に日本で初めて鉄道が開業したころに比べると、運賃は安くなりました。

一方、能登では、七尾鉄道の建設が地元の有力者たちが作った会社によって進められます。津幡~七尾間に鉄道が開業したのは、1898年(明治31)のこと。その後、七尾鉄道は私鉄国有化の流れの中で1907年(明治40)に国有化されます。

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馬から電気へ-県内の私設鉄道の進化

北陸線の石川県内開業と同じころ、私設鉄道も登場。私設鉄道の多くは、その土地に密着して人々の生活や産業・観光のだいじな交通手段になります。

最も早く営業を開始したのは金石馬車鉄道で、1898年(明治31)に開業しました。馬車鉄道は線路上の客車を馬が引っ張る鉄道のこと。金石馬車鉄道は、開業時は長田から上金石までの路線で、金石港から船で敦賀港(福井県)へ行き、そこから鉄道で京都や大阪に荷物や人を運ぶ経路となることを期待されての開業でした。

ほかにも加賀温泉郷の馬車鉄道は、関西方面からの温泉客の重要な足となります。

大正時代に入ると、馬車鉄道から電気で走る電車に変わっていきます。1913年(大正2)山中電軌が石川県内最初の電車を走らせ、他の馬車鉄道も少しずつ電化に。明治から昭和初期にかけて、県内にはたくさんの私設鉄道がありました。

しかし、1942‐45年(昭和17‐20)にかけて県内の私設鉄道の多くは、第二次世界大戦中の政策で北陸鉄道に合併されました。

北前船から鉄道へ-あらゆる物が鉄道で運ばれた時代

かつて、石川から西日本への貨物は、北前船の開運で主に運ばれていました。北前船による輸送は、通常は1年間に1回だけ、それも長い日数をかけていましたが、鉄道では、わずか2‐3日で、しかも一年中輸送が可能になりました。その結果、石川の伝統的産物の価値がより高まり、新たな産業も発展することになったのです。

1935年(昭和10)ごろ、鉄道による輸送には写真のような貨車が主に使われていました。雨にぬれて困るものは屋根のある「有蓋車」、石炭や砂利などは屋根なしの「無蓋車」が主に使われました。

輸送の時には、貨車の外側に「貨車車票」というカードを差し込むことで、貨車が目的の駅まで運ばれるシステムになっていました。貨車車票に記された出発駅・到着駅・積み荷の品名などの情報から、原材料の動きや完成品が送られた先など、当時の産業にまつわる物流を読み取ることができます。また、各駅から発送された特産物は、当時の「沿線物産案内」などで知ることができます。

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1940年ごろの石川県鉄道マップ

(金沢市内電車については、「路面電車-かつての金沢市民の足」で紹介)

鉄道の歴史(昭和中期~北陸新幹線金沢開業)

クルマも飛行機も-時代とともに増える移動手段

第二次世界大戦の前後、陸路での移動や輸送の主な手段は、車ではなく鉄道でした。道路整備がおくれていた日本では、戦後もしばらくは、国道でさえ大半が土や砂利のままでした。高度経済成長期(1955-73年ごろ)に入り車社会化が進み、道路が整えられていきます。県内では、1970-80年代にかけて、国道8号線、北陸自動車道、能登有料道路(現・のと里山海道)などの大きな道路が開通し、車で快適に遠くの場所へも移動できるようになりました。

また、このころから飛行機で移動する人も増えていきました。県内にある2つの空港のうち、小松空港は1961年に開港。石川の空の出入口として利用され、現在、国内線・国際線の旅客便だけでなく、国際貨物便も発着しています。能登に人を呼びこむことを期待され、2003年に開港したのと里山空港。開港以来、現在も関東地方から観光やビジネスのために多くの人が利用しています。

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奥能登ロマン

1950-60年代にかけての能登が登場するラジオドラマ・小説・映画のヒットや1970年から始まった国鉄の「ディスカバー・ジャパン・キャンペーン」により、一大観光ブームにわいた能登半島。

1965年には北陸周遊券が、1970年には能登・加賀温泉ミニ周遊券が発売され、これら割安のきっぷで若い人たちも気軽に能登半島を旅行できるようになりました。国鉄七尾線や能登線を急行や準急列車が走っていた時代。多くの観光客が鉄道を利用して輪島や珠洲などの奥能登へと向かいました。

やがて日本全体で車社会化が進み、奥能登でも道路が整えられていきました。1982年には金沢から穴水を結ぶ能登有料道路が全線開通し、奥能登への旅は車を利用する旅へと変化していくことになります。

現在、新幹線で石川を訪れる人たちは、レンタカーやレンタサイクルなどを使って能登観光を楽しんでいます。また、能登半島を走る観光列車も利用されています。美しい車両に乗って、その土地ならではのお弁当を食べたり、景色を楽しんだりできる観光列車は日本各地で運行され、人気を集めています。

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『旅程と費用』にみる1969年当時の能登旅行

1969年当時の所要時間と運賃

金沢~輪島間 急行で2 時間20 分、670 円

金沢~珠洲間 急行で3 時間、830 円

東京(上野)~金沢間(上越線・北陸本線利用)
 特急で7 時間10 分、2,980 円
 急行で約10 時間、2,280 円

大阪~金沢間 特急で約3 時間50 分、2,020 円
 急行で4 時間20 分、1,520 円
輪島から大阪へ向かう上りの直通急行・ゆのくにが、1 日1 本運行

雑誌『旅』

1924 年(大正13)から2012 年まで発行された、日本で最も古い歴史を持ち、最も長く続いた旅行雑誌。観光の新しい動きを伝え、時代ごとに旅のスタイルを作りだしてきた。鉄道を扱った記事も多く、鉄道ファンからも支持された。

[写真:左]『旅』 日本交通公社 1964 年6 月佐渡・能登・北陸温泉郷を取り上げた「北陸特集号」。 若い旅行者に人気の観光地として、能登が注目されていた。この年、大阪~富山間を走る特急・雷鳥が誕生。東海道新幹線も開業した。(第38 巻第6 号)

[写真:右]『旅』 日本交通公社 1974 年8 月国東(大分県)・能登・下北(青森県)の3つの半島を特集。当時は国鉄のディスカバー・ジャパン・キャンペーンによる全国的な旅行ブームに加え、「アンノン族」と呼ばれる、ファッション雑誌「anan」「non-no」を片手に旅を楽しむ若い女性が登場。能登半島にも多くの旅行者が訪れ、若い女性旅行者を意識した広告も作られた。(第48 巻第9 号)

所蔵:旅の図書館

変わりゆく鉄道路線

主な移動の手段が鉄道だった時代から、車や飛行機などいろいろな乗り物を利用する時代になると、県内でも鉄道を利用する人がしだいに減っていきました。

1960-80年代の能登観光ブームの中、多くの観光客でにぎわった国鉄七尾線。そして1964年に全線が開業し、地域の住民や観光客、仕事で能登と他の地域を行き来する人たちに利用された国鉄能登線。これらは国鉄分割民営化後、1988年には能登線の全線が、1991年には七尾線の和倉温泉~輪島間が第三セクター・のと鉄道へ受けつがれましたが、のちに七尾~穴水間を残し運行が中止されました。

戦中から戦後にかけて県内で140km以上の線路をめぐらせていた北陸鉄道も、1960年代以降は鉄道からバスへと切りかえを進めていきました。現在も残る鉄道路線の浅野川線(北鉄金沢~内灘間)と石川線(野町~鶴来間)は、通勤・通学の足として沿線に住む人たちの生活を支えています。

一方で、近年アニメやマンガ作品のラッピング列車が日本各地で登場し、ローカル線の活性化につながると注目されています。現在石川でも、のと鉄道七尾~穴水間を2つのラッピング列車が走り、沿線に多くのファンを呼びこむことに成功しています。

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2014年ごろの石川県鉄道マップ

石川と新幹線

北陸新幹線の金沢開業

2015年3月14日。この日、ついに北陸新幹線の金沢駅が開業。石川県にとっては百年に一度といわれるほどの大きなできごとで、県内はお祝いムードに包まれました。

北陸新幹線の構想が初めて発表されたのは、東海道新幹線が開業した翌年の1965年だったといわれています。その後、全国新幹線鉄道整備法に基づき、1973年に計画が決定しました。

ところが、その年から始まった第一次オイルショックや、鉄道の利用者が減って国鉄の経営が厳しくなったことなどにより、着工が大きくおくれました。1989年、高崎~軽井沢間で工事がはじまり、長野オリンピック前年の1997年に高崎~長野間が開業。当時は「長野新幹線」と呼ばれていました。

長野~金沢間の一部区間は、はじめは在来線と同じレール幅の「スーパー特急方式」で計画されていましたが、その後の見直しでフル規格化。これにより北陸新幹線金沢開業時には、東京~金沢間を乗りかえなく約2時間30分で移動できるようになりました。より便利で快適になった鉄道を利用して、たくさんの人が石川を訪れる新時代が幕を開けたのです。

新幹線でにぎわう県内と地域の足

関東をはじめ、いろいろな地域から多くの人を連れてきた北陸新幹線。開業の効果は金沢だけにとどまりません。能登へ、加賀へ。にぎわいは県内のすみずみまで広がりました。

北陸新幹線の金沢開業と同時に誕生したのがIRいしかわ鉄道です。それまでJRが運行していた石川県内の区間を引き継いで、在来線(俱利伽羅~金沢間)を運行する役目を持っています。在来線は新幹線開業後の通勤や通学など、地域住民にとって欠かせない交通手段で、今後、金沢~敦賀間の開業にあわせて、金沢~大聖寺間もIRいしかわ鉄道が運行することになります。

目前にせまる!県内全線開業

2024年春、石川県にとって金沢開業に次ぐ「第二の開業」となる金沢~敦賀間が開業し、石川県内の全線で北陸新幹線が走るようになります。県内には新たに、小松駅と加賀温泉駅の2つの駅が誕生。東京だけでなく大阪や名古屋との移動時間も短縮され、ますますわたしたちの生活が便利になります。

さらに石川県を盛り上げよう!

石川には、芸術・伝統芸能・伝統工芸などのきらびやかな文化のほか、食文化・生活文化といった暮らしの中の文化など、数多くの文化があります。北陸新幹線で石川を訪れる人は、こうした文化を楽しみに来てくれます。これからも、もっと多くの人に来てもらい、心から楽しんでもらえるよう、それぞれがこれらをさらにみがいて、わかりやすく伝えていくことも大切です。

また北陸新幹線が敦賀駅までつながると、石川・富山・福井の北陸三県がわずか1時間ほどで結ばれます。より近くなる北陸三県。これからも協力して、みんなで全国に北陸の良さをPRしていきましょう。

鉄道と生活(明治~昭和)

行き先は「夢の国」!

荷物を運び、人々の通勤・通学の手段となる以外にも、旅行などレジャーを求める人を運んできた鉄道。鉄道の発展により、石川にも多くの観光客が県外からやってくるようになります。そんななか、さらに鉄道の利用を増やす秘策「鉄道の終点にレジャーランド」が石川にも誕生します。

まずは1925年(大正14)に始まった浅野川電気鉄道と粟ヶ崎遊園。兼六園の倍近い広さに、大劇場・大浴場・レストラン・動物園・海水浴場ともりだくさん。いちばんの目玉は「粟ヶ崎少女歌劇」で、すでに全国的に人気だった少女歌劇「宝塚少女歌劇団」にあやかり「北陸の宝塚」とも呼ばれるようになります。それに張り合うように、同年、金石電気鉄道が金石海岸に涛々園(とうとうえん)をオープン。浴場・演劇堂・食堂のほか、すもう大会や水族館が多くの人を呼び寄せました。そんな夢の国々は沿線や地域を盛り上げていきましたが、第二次世界大戦がはじまると旅行やレジャーも制限され、粟ヶ崎遊園は1941年(昭和16)、涛々園は1943年(昭和18)に閉園してしまいます。

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沿線物産案内で知る石川の産業

日本では、鉄道が走る地域の物産案内を発行し、各地の産業を紹介してその発展をうながしてきました。明治時代から何回も発行された物産案内は、今では当時の地域の産業を知る貴重な資料となっています。

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鉄道とともに発展-石川の産業

鉄道の開業により、傷みやすい食料品やこわれやすい商品を日本各地に運ぶことができるようになり、県内の産業の発展につながりました。

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路面電車-かつての金沢市民の足

大正時代から昭和40年代にかけて、金沢の市街地を金沢市内電車(金沢市内線)と呼ばれる路面電車が走っていました。1919年(大正8)2月、北陸鉄道の前身・金沢電気軌道が金沢駅前~兼六園下間で運行を開始し、続く7月には兼六園下~香林坊~犀川大橋間、武蔵ケ辻~香林坊間、兼六園下~小立野間が開業します。路面電車の運行が開始されたことで道路がきれいになり、人の流れが活発になったことで商店街が活性化し、金沢の街なみは発展していきました。

1945年までに12.5kmの線路がしかれ、金沢市民の足として親しまれ大いに利用された金沢市内電車。年間の乗客数が最も多かったのは1947年の3,900万人でした。しかし、その後はバスや自家用車の利用が増えるにしたがい、路面電車の利用は減っていきます。

1961年には「市街地の整備のために路面電車をなくしてはどうか」との声があがりました。乗客数の減少とも重なり、1967年2月10日の花電車の運行を最後に、市民におしまれながら、その歴史に幕を下ろしました。

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鉄道に関する歴史公文書

石川県立図書館は、歴史的に重要な公文書を保存し県民のみなさまに提供する「公文書館機能」を備えており、明治から戦前に作成されたものを中心に、約2,400 冊のファイルが利用可能です(2023 年3 月31 日現在)

ここに展示している『七尾鉄道一件』もそんな公文書ファイルの一つ。例えば、二宮川に橋を架けることに関する文書には、工事説明書や図面が含まれており、鉄道局の規定に基づいて設計したこと、枕木(まくらぎ)は二尺の間隔で配列したこと、橋台の側面には花崗岩(かこうがん)もしくはそれに準ずる石を使っていたことなど、詳細な情報がわかります。

石川を走る特急・新幹線

雷鳥からサンダーバードへー北陸と関西を結ぶ主役

北陸本線を走る人気の特急・サンダーバード。その前身である特急・雷鳥は、1964年に運行が開始されました。最初は大阪~富山間を1日1往復するのみでしたが、乗客数の増加を受け1966年10月には2往復になり、以後、増発をくりかえして国鉄時代は最大19往復、国鉄が分割民営化された翌年の1988年には20往復が運行されていました。

1989年、パノラマグリーン車とラウンジカーが連結されたスーパー雷鳥が登場。1992年には新型車両が導入され、まず臨時特急として運行開始。1995年、この新型車両を使用した列車はスーパー雷鳥(サンダーバード)となって、1日8往復で運行が始まります。さらに1997年には列車名がサンダーバードへと変わり、運行本数が増えていきました。一方、雷鳥やスーパー雷鳥はしだいに減り、2011年のダイヤ改正で、雷鳥の名を持つ列車はすべて姿を消しました。

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新幹線と日本の発展

現在、「新幹線」という名前の路線は、2022年にスタートした西九州新幹線をふくめて、国内に10路線あります。日本初の新幹線である東海道新幹線が1964年に開通してからおよそ半世紀。今では日本中が新幹線で結ばれる時代となりました。

東海道新幹線は当時の東京オリンピックに合わせるように開通したのですが、このおかげで東京~大阪間の移動がとても便利に。新幹線がないときは6時間30分かかっていた移動時間は、開通の次の年には3時間10分と、なんと半分以下に!オリンピックに続いて1970年には大阪万博が開かれましたが、これに合わせてこだまの本数を増やしたり、ひかりの車両数をのばすなどして、約1千万人もの人々が新幹線を使って万博に来場したそうです。

その後、各地に新幹線がのびることで、日本のすみずみまで早く移動することができるようになりました。そして、新幹線が開通した地域は大きく発展していくことになります。

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もしものときの、たよれる存在

西に向かって今でも建設が続けられている北陸新幹線。その役割は北陸との移動のためだけではありません。もし東京をふくむ太平洋側で地震が起きて、東海道新幹線の東京~名古屋間を使うことができなくなったとしたら・・・。なんと一日に約20万人もの人が移動できずに困ってしまうと予想されています。

その経済損失は一日で約50億円!でも、北陸新幹線が大阪まで全線開業していれば、東海道新幹線の代わりとして使うことで、一日約10万人もの移動が回復されるそうです。北陸新幹線は普段の移動だけでなく、災害のときにたのもしい存在なのです。

また、新幹線は約半世紀前に運行を開始してから、「死亡事故ゼロ」がずっと続いています。悪天候や災害にも強く、安全で安心な乗り物といえます。

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みんな大好き!W7・E7系

北陸新幹線(W7・E7系)の車両には、実はほかの路線と大きくちがう特色があります。

北陸と関東の間には険しい山々がありますが、その交通上の不利を、北陸新幹線は乗り越えました。実は山を越えるときに問題なのは登りよりも降りです。北陸新幹線の路線には全国で最も長い坂があり、これを安全に降るため「抑速回生ブレーキ」という特別なブレーキが使われています。これにより、30km近くに及ぶ長い降り坂を安全に走行できるほか、なんと発電までしてくれます。発電された電気はパンタグラフを通じて、坂を登る車両にも使われます。

また、日本の電気には東日本の50Hzと西日本の60Hzという2種類の周波数があります。北陸新幹線はこの周波数の境を走るため、合計3回も周波数変わりますが、どちらの周波数にも対応できるように設計されています。

新幹線の車内から日本海が見られるただ一つの新幹線で、沿線に続く山々など外をながめるのも楽しい北陸新幹線。金沢~敦賀間の開業が待ち遠しいですね。

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鉄道と文学

鉄道から小説へ

旅などの「非日常」としての側面と、通勤通学などの「日常」としての側面を併せ持つ鉄道。

江戸川乱歩の『押絵と旅する男』では不思議な出来事に出会う場として。有川浩の『阪急電車』では日々利用する人たちや沿線の人々を描く場として。浅田次郎の『鉄道員(ぽっぽや)』では主人公の駅長が働く場として。鉄道にまつわる様々な小説が書かれてきました。時代ごとに鉄道がどのような存在だったのか感じ取ることもできます。

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鉄道から紀行へ

なんにも用事がないけれど、

汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う。

內田百閒「特別阿房列車」(収録『第一阿房列車』新潮社2003年)

鉄道が交通手段として広く使われはじめると、紀行文にも登場するようになります。その中でも內田百閒は「列車に乗ること」自体を描きました。

その流れに阿川弘之が続き、宮脇俊三、種村直樹などが鉄道紀行の一時代を築きあげました。

鉄道からミステリへ

鉄道とミステリの愛称は抜群。鉄道が走りはじめてからは世相や風俗・社会情勢を映す場として。鉄道網が整備されてからはさらに動く密室・アリバイトリックの場として。鉄道を舞台とする様々な名作が生み出されました。とはいえ、スマホの普及といったITの発展や、防犯カメラの設置などにより時刻表トリックは成立しにくくなり・・・今では「鉄道の中」というシチュエーション自体を生かしたものも増えています。

鉄道ミステリは謎解きとしての面白さもさることながら、今はなき路線や列車、駅などが現役だったころを生き生きと感じることができます。

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特設ミニコーナー(こどもエリア)

運転士さんの仕事

電車の運転士さんは、運転席で電車を動かし、お客さんや荷物を安全に時間通りに、目てき地に運ぶ仕事をしています。電車を運転するだけではなく、安全に電車が動くかを調べることも運転士さんの仕事です。

運転士さんが仕事をする時間は、運転する電車が何時に出発するかによって、毎日変わります。朝から仕事が始まる日もあれば、夕方から始まる日もあります。電車は毎日動いているので、土曜日や日曜日も交代で働いています。

運転士さんになるには、たくさんの訓練を受け、試験に合かくしなければなりません。合かくした後も、お客さんが安全に電車に乗ることができるように、くり返し訓練しています。

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新幹線の車輪(屋内広場)

北陸新幹線の車輪

こちらは北陸新幹線に実際に使われていた車輪です。

北陸新幹線の最高速度・時速260kmでも脱線せず、安全で快適に走行するための最も重要な部品です。ブレーキパッドを含めた重さはなんと約450㎏!これまでに東京~金沢間を約2,700回往復、距離にして約200万kmも走行し役目を終えました。

新幹線の車輪に見る超絶技巧

新幹線の車輪には、重い車体を支え、長い距離を速く安全に走るための超絶技巧が施されていることを皆さんは知っていましたか?

 車輪とレールが接する面(踏面)を見ると、車輪の内側から外側に向かって勾配がついています。さらによく見ると、この勾配が曲線になっていることがわかります。

実は初代新幹線0系のとき、この勾配は直線でした。車輪には①脱線せず安全に走れること、②カーブをスムーズに通過できること、③摩耗しにくくて長持ちすることという条件が求められますが、時代とともに新幹線の高速化が求められる中で、より速く、それでもより安全で快適に走ることができるよう、長い間試行錯誤が繰り返されました。その結果、踏面の勾配はシンプルな直線から現在の曲線を取り入れた複雑な形状へと進化!

このような技術の進化により、安全で快適に走る新幹線に乗ることができているのです。

展示図書リスト

展示の様子

全体の様子

期間中は大勢の方に足を運んでいただきました。

パネル展示

上で紹介した画像は、すべて期間中パネル展示されていたものです。

ガラスケース展示

会場では、京都鉄道博物館からお借りしたヘッドマークかばんなどの資料を展示しました。その一部をご紹介します。

新しいMY SHOSHOのタイトル