百万石文化まんだら

石川県立図書館 企画展 (2023.9.26~2024.1.21)

金沢城の歴史

金沢城の成り立ち

金沢城は犀川と浅野川とにはさまれた小立野台地の先端に築かれた平山城(平野の中にある山、丘陵等に築かれた城)です。城となる前は、加賀一向一揆の拠点である金沢御堂が置かれていました。1580年に織田家の重臣・佐久間盛政が金沢御堂を占拠し、初代金沢城主となります。1583年の賤ケ岳の戦いの後、当時能登国の国持大名であった前田利家は、北陸に進出した羽柴秀吉に従属し佐久間の居城である金沢城を攻め落とします。2代目の金沢城主となった利家は1586年に天守を造営しました。次代城主の前田利長は天守の焼失後、三階櫓を作るなど、その後も金沢城は加賀藩前田家の居城として発展していきます。城は度重なる火災で幾度も焼け落ちますが、その度に再建を繰り返し、御殿や庭の整備が盛んに行われてきました。

今回の展示では、繰り返す再建の歴史と、文化の大火(1808年)後に再建された「後期金沢城」の二の丸御殿の機能や美術工芸を紹介します。

金沢図(寛文金沢図)1668年

江戸前期の金沢城下の土地利用のあり方および、当時の身分秩序や職能に応じ住居が配置された実態を正確に示した、現存する最古の金沢城下大型絵図。県指定文化財。

所蔵:石川県立図書館(大型絵図)

金沢城の歴史(年表)

西暦 和暦 城主 主な出来事
1546 天文15   金沢御堂が創建される
1580 天正8 佐久間盛政 佐久間盛政が金沢城主となる
1583 天正11 前田利家 前田利家が金沢城主となる
1602 慶長7 前田利長 落雷により天守が焼失する
1620 元和6 前田利常 本丸御殿が焼失する
1621 元和7 本丸を拡張し、御殿を再建する
1631 寛永8 金沢城下で大火があり、金沢城も焼失する(寛永の大火)。新たに二の丸を造成し御殿を造営する
1759 宝暦9 前田重教 城下町の大火により二の丸御殿ほか城内の大部分の建物が焼失する(宝暦の大火)
1761 宝暦11 二の丸御殿の再建に着手する
1763 宝暦13 藩主・前田重教、再建された二の丸御殿に入る
1808 文化5 前田斉広 二の丸の火災により、御殿が焼失する(文化の大火)
1863 文久3 前田斉泰 斉泰夫人のため、兼六園内に巽御殿が作られる(成巽閣)
1871 明治4   廃藩置県につき、兵部省(のち陸軍省)の管轄となる
1881 明治14   二の丸の兵営より出火し、御殿の他菱櫓・五十間長屋・橋爪門などが焼失する
1898 明治31   二の丸に陸軍第九師団司令部庁舎が建設される
1949 昭和24   金沢大学の敷地として利用されるようになる
1996 平成8   金沢大学が角間キャンパスへ移転したことにともない、石川県が土地を取得し、公園化と復元整備の方針が示される
2001 平成13   金沢城公園開園
菱櫓・五十間長屋・橋爪門(続櫓)が復元される
2010 平成22   河北門が復元される
2015 平成27   橋爪二の門・玉泉院丸庭園が復元される
2020 令和2   鼠多門・鼠多門橋が復元される

出典

金沢城調査研究所『金沢城の御殿空間』金沢城年表より,石川県金沢城調査研究所,2022年

金沢城研究調査室『よみがえる金沢城1』,石川県教育委員会,2006年

金沢城調査研究所『よみがえる金沢城2』,石川県教育委員会,2009年

大火と再建の歴史

【寛永の大火】1631年(寛永8)4月

本丸をはじめ城の中心部が焼失。加賀藩は二度にわたって工事の許可願を幕府に申請し、6月と9月に許可 が下り再建を開始しました。造営の準備のため5月頃より砺波郡の山林から資材を運ばせ、8月以降能登奥郡 から延べ13,000人の人足を村の負担で金沢へ出させています。この度の再建により、二の丸付近が拡張され、藩の中枢が本丸から二の丸に移りました。

【宝暦の大火】1759年(宝暦9)4月

二の丸御殿をはじめ、金沢城の大半が焼失。藩はただちに幕府から5万両を借り受け、藩主の居館であった二の丸御殿から再建を始めます。1772年に河北門が再建、その後二の丸御殿の表式台・菱櫓・五十間長屋等が 再建されていきました。

【文化の大火】1808年(文化5)1月

二の丸御殿全体が焼失。再建費用の総額銀6,900貫目(時価約420億)のうち約6000貫目は家臣及び領民からの献金と、資材などの献納で賄われました。表御殿が未完のまま工事が終了しそうになりますが、「これだけの献金を領民から受けた以上、何とかやりくりしてほしい」という藩主・前田斉広の意向を受けて、1810年には表御殿まで再建が進みました。

加賀国金沢城絵図

松平加賀守 1808年

文化5年の火災で被災した箇所を詳細に示し幕府に提出した絵図の控図

所蔵:石川県立図書館(郷土古典籍)

二の丸御殿の構成

二の丸御殿の構成

二の丸御殿は、二の丸の敷地全体に広がる城内最大の建物でした。江戸後期の絵図等の史料によると、約3,200坪の規模で60を超える部屋で構成され、表向・御居間廻り・奥向の大きく3つに区分でき、数多くの飾金具や著名な絵師による障壁画などの装飾に彩られた豪華絢爛な建物であったことが明らかになっています。

表向 おもてむき

儀礼や政務の空間で、玄関は東に面し、これに続き式台、待合等に使われた虎の間、建物から張り出した実検の間などが置かれていました。中央に配置される大広間竹の間は年頭儀礼などが行われ、御殿の中で最も規模の大きい空間でした。西側には対面儀礼に用いられた書院や執務のための諸室、北側には能舞台や楽屋などが置かれました。南側には大規模な台所があり、主に板敷きになっていました。

御居間廻り おいままわり

藩主の居住空間で、南に面し奥式台と呼ばれる玄関が設けられていました。東側は藩主に仕える家臣などが控える間、西側は藩主が政務にあたる御用の間、生活の場である菊の間や御寝所などが置かれ、一部二階建てとなっていました。また、江戸後期の御殿には御居間廻りにも能舞台が置かれました。

奥向 おくむき

東側は藩主の母や側室、子女の生活する居間や、謁見の間である対面所などで構成され、一部二階 建てでした。西側は部屋方と呼ばれ、御殿で働く女性たちが居住する集合住宅のような間取りに なっていました。奥向と御居間廻りは御鈴廊下で接続され、出入りが厳重に制限されていました。

二の丸御殿の障壁画と主な絵師たち

二の丸御殿は明治14年の火災で焼失し、障壁画そのものは残っていませんが、当時を知ることのできる史料が遺されています。文化7年(1810)の再建時、造営方役所の奉行を務めた高畠厚定(1753-1810)による公務日誌『御造営方日並記』には、基盤である石積みから内装作業に至るまで、造営のありさまが詳細に記録されています。

こういった文献等から、御殿内には大きく分けて江戸・京都・地元金沢の3つの地域から集められた著名な絵師による障壁画や欄間等が数多くあったと考えられています。

京・江戸・地元の絵師たちは、ときには競い合い、ときには協力し合いながら腕を振るい、華麗な内装のデザインを創出していました。

地元絵師グループ

佐々木泉景(1773-1848)や八代梅田九栄(1791-1846)などがおり、それぞれ杉戸と天井画を担当しました。佐々木泉景は大聖寺(現在の加賀市)の出身で、若年から絵をたしなんでいました。一方梅田家は、狩野派の絵師として代々金沢城の障壁画を描く御用を務めていました。

雪景山水図屏風(右隻)

佐々木泉景 1837年 所蔵:石川県七尾美術館

江戸狩野グループ

狩野友益(生没年不明)と墨川(生没年不明)の親子が中心。神田松永町の狩野派絵師で、主に「表向」部分(奥書院、松の間、小書院、萩の間、竹の間など)、そして御居間廻りのなかでも核ともいえる居間そのものを担当していました。また、ときに応じて杉戸絵や天井画も作成しています。

宮中管弦図

狩野墨川 1823年 所蔵:公益財団法人前田育徳会

京都岸派グループ

岸駒(1749-1838)と岸岱(1785-1841)の親子が中心。岸駒は越中の出身とされ、京都御所の障壁画を制作したことでも知られます。虎の絵が得意で描かせたら右に出るものはいないと評されていました。彼の滞在期間は短かったようですが、門人も加わり玄関とそれに続く虎の間などの障壁画を作成しました。

松下飲虎図

岸駒 19世紀 所蔵:公益財団法人前田育徳会

百万石文化まんだらモノづくり体験

大正レトロ図案で作るかわいいいコースター

竹または珪藻土のコースターに、レーザーカッターまたはUVプリンタで、レトロ図案のデザインを加工します。複数のデザインから自分の好きなものを選べます。

開催日時:展示期間中の水曜日・木曜日(15:00~18:00)と土曜日(10:00~16:00)

会  場:モノづくり体験スペース

参 加 費:竹は無料、珪藻土は100円

所要時間:約20分

申  込:事前申込不要 ※数に限りがあります

参加方法: ① SHOSHOにアクセスして図案を選びます,② モノづくり体験スペースでコースターに加工します

百万石文化まんだら 文化人相関図

前田利家

1538~1599年(戦国時代~安土桃山時代)。戦国武将、大名。加賀藩主前田氏の祖。15歳で織田信長に仕え、「又左の鑓」と呼ばれるほどの武勇の人物でした。信長の死後、賤ヶ岳の戦いや末森城の戦いを経て、加越能三か国を所領する大名となりました。

豊臣秀吉が天下統一を果たすと、戦国武将たちにも学問や芸道に親しむ余暇が生じ、利家も茶の湯や和歌・書道などに通じました。利家は幸若舞(軍記物語を大鼓・小鼓にあわせて謡い舞う芸能)を好んでいましたが、秀吉の影響で能楽の愛好者となりました。余暇のあるときには3日に一度は稽古を行ったといいます。1593年、3日間にわたって秀吉が挙行した「太閤御能」には、諸大名がこぞって参加し、利家も「源氏供養」と「江口」のシテ(主役)を演じ、秀吉・ 利家・徳川家康の3人で狂言「耳引」を演じました。

前田綱紀

1643~1724年(江戸時代)。大名。加賀藩5代藩主。4代藩主・ 前田光高の急死により、3歳にして家督を相続し、3代藩主・前田利常の後見を、利常の死後は保科正之(3代将軍・徳川家光の異母弟)の後見を受けました。利常の改作法(農政改革)を継承•整備して藩政を確立するほか、学問・芸術の振興と発展にもつくしました。

1687年、綱紀は御細工所の機構を大幅に拡大・整備し、細工職種は20種を超えました。綱紀が古今東西の図書を収集したのが尊経閣文庫ですが、図書を収集して分類整理するという考え方を工芸技術資料に応用したのが百工比照です。幕府の公式史書『徳川実紀』では「綱紀わかきより学を好み。和漢の書を読字。同列には並ぶ人なき。」と評されています。新井白石から「加賀は天下の書府」と讃えられたのも、綱紀の功績といえます。

徳川家康

1542~1616年(室町時代~江戸時代)。戦国武将、大名。江戸幕府初代将軍。三河国で生まれ、幼少期は駿河国の大名・今川家の人質としてすごしましたが、桶狭間の戦いののち、信長から駿河・遠江・三河3か国を所領しました。信長の死後は豊臣秀吉と和睦し、関東で250万石の大大名となりました。その後、関ヶ原の戦いに勝利したのち、1603年に江戸幕府を開きました。

幕府の政治的基礎を固める一方で、家康はあらゆる学問に通じ、和漢の古い書物を収集して銅活版で印刷・発行するなどの文化事業も推進しました。駿府には約1万点の蔵書・駿河文庫が作られ、築城の際には全国から優秀な職人たちが集められました。また、秀吉同様に家康も大の能好きで、秀吉の死後、大阪の四座(現在も続く観世・宝生・金春・金剛の四流派)を駿府に移して保護しました。

徳川家光

1604~1651年(江戸時代)。江戸幕府3代将軍。2代将軍・徳川秀忠の次男。祖父・徳川家康や父と異なり、戦場に出ることなく将軍職に就いた家光は、江戸城を完成させ、武家諸法度や参勤交代の制などを整え、幕府の諸制度の基礎を築きました。

家光が将軍であった寛永年間には、絢爛豪華な日光東照宮や二条城が造営され、ふさわしい絵画や工芸品をつくるために多くの御用絵師や御用職人が活躍しました。政治的には桃山時代の延長線上にある江戸幕府が営んだ文化は、桃山文化の色彩を色濃く残しながら成熟した文化として発展し、後水尾天皇が京都で展開した寛永文化とは異なる性質がみられます。また、後水尾天皇の皇后である東福門院(和子)は家光の同母妹で、前田利常夫人である天徳院(珠姫)は家光の異母妹にあたります。

小堀遠州

1579~1647年(安土桃山時代~江戸時代)。別名:小堀政一。大名、茶人。近江国小室藩初代藩主、茶道・遠州流の祖。備中国松山藩初代藩主だった父・小堀正次の教育を受け、藤原定家を模範として学び、朝廷と武家の儀式・習慣に精通していたため、江戸幕府と朝廷とのバランスを保つ重要な役割を果たしました。

幕府の作事奉行(幕府の建築工事を司った要職)、京都の伏見奉行(幕府直轄の要地に配される奉行)を務め、将軍家の茶道指南役にもなりました。江戸の前田邸の茶室や書院では、平安王朝文化とその流れをくむ鎌倉時代の和歌文学の文物が飾られ、茶の湯の道具は、室町時代に舶来した唐物の名品が用いられていました。これらの来歴などを記した箱書付や由来書から、前田家の茶道具収集には、遠州が深く関わっていたことが知られています。

狩野探幽

1602~1674年(安土桃山時代~江戸時代)。別名:狩野守信。絵師。狩野永徳、佐々成政の孫。京都の狩野家に生まれ、幼少のころより 画才を発揮し、16歳で江戸幕府初の御用絵師となりました。

1621年に京都から江戸へ移って以降、大坂城、江戸城、二条城、名古屋城、日光東照宮など、次々と大事業に関わり多くの障壁画を描くなかで、自らの様式を確立しました。祖父の永徳が画面をはみ出すほどの迫力ある表現を目指したのに対し、探幽は叙情をはらむ余白を重視した構図で描きました。還暦で絵師の最高位・法印を授けられた後も、創作意欲と探究心は衰えることなく、やまと絵や古画を研究し、後進育成のための粉本(模写)や画帖(肉筆の画集)の制作にも力を入れました。のちに岡倉天心(東京藝術大学創設の中心人物)は、探幽を「画壇の家康」と評しています。

二の丸御殿の復元

二の丸御殿の復元整備

およそ390年前に創建され、加賀藩の政治・文化の中枢であった二の丸御殿。1881 年(明治14)の焼失から140年の時を経て、令和3年より復元整備の取組みが始動しまし た。御殿を復元することは、金沢城の城郭としての役割を理解する上で重要な意味を持ち、また、本県の匠の技や伝統工芸の技を発揮し、次世代に伝える大きな役割もあります。

復元整備は江戸後期を通じて変化が少ない表向、中でも御殿ならではの装飾が数多く施されていた玄関・大広間・書院等が配置される主要部が中心となり、まずは、玄関や式台周辺から段階的に進めます。また、より史実性の高い復元整備のため、埋蔵文化財や 障壁画の調査が進められています。

史料・建造物に遺る二の丸御殿

1881年(明治14)の火災で御殿の建物自体は失われてしまいましたが、文献や絵図・写真等の史料から、当時の様子を知ることができます。例えば、造営にあたった奉行の日誌「御造営方日並記」や、建物の仕様をまとめた「二之御丸御殿御造営内装等覚及び見本・絵形」には、江戸後期再建時の記録が豊富に残されています。また、二の丸御殿を描いた絵図も数多く確認されています。

百万石文化まんだら 文化人紹介

加賀藩の御用絵師

美術・工芸・芸能などの文化を積極的に奨励した加賀藩3代藩主・前田利常は、多くの絵師を加賀藩へ招き、登用しました。狩野探幽は幕府御用絵師となってからも、利常に加賀藩へ何度も招かれ、利常が建立した高岡山瑞龍寺(前田利長の菩提寺)や天徳院(珠姫の菩提寺)などへ寄進する絵を描いています。探幽の一番弟子であった久隅守景も何度か加賀藩へ招かれています。俵屋宗雪は加賀藩の御用絵師となって金沢へ移り、一族弟子ともども金沢城下に在住しました。

加賀藩12代藩主・前田斉広の時代、1808年(文化5年)の大火で金沢城二の丸御殿が焼失し、翌年に復興工事が進められました。二の丸御殿障壁画制作には、多くの絵師が参加しています。狩野派では、江戸から金沢へ移った狩野友益とその子・墨川、地元の八代梅田九栄や佐々木泉景、その弟子・早川泉流など。狩野派のほかには、京都から岸派の祖である岸駒、その長男・岸岱、村上松堂のほか、箔押・表具師・紙細工師たちも金沢へ移りました。岸派の地元絵師としては、森寒峯や村東旭などがいます。二の丸御殿障壁画制作は、狩野派と岸派の競筆、江戸と京都など東西の絵師の対決、それに地元の絵師が加わり、絵師にとっては腕の見せ所を発揮する機会でした。

四睡図

江戸時代、狩野探幽の作品

所蔵:高岡山瑞龍寺

竹菊雀図

江戸時代、狩野探幽の作品

所蔵:高岡山瑞龍寺

綱紀が収集した百工比照

百工比照は、加賀藩5代藩主・前田綱紀が工芸技術全般にわたる資料を収集して分類整理したものです。綱紀の死後も継続して収集されました。資料の材質は紙・漆・木・革・染織・竹・象牙・金属など多岐にわたり、形態別に整理され、10の箱と附属の1箱に収納されています。名称は綱紀自身が名付けたもので、「百工」とは諸種の工芸または工匠という意味で、「比照」とは比較対照するという意味です。

江戸時代前期から中期(1600~1700年頃)にかけての、各種工芸の実物資料・見本・模造品・模写の図案・絵図・文書資料などからなっています。約2,800品目あり、日本の近世工芸技術の調査研究に欠くことのできない資料となっています。前田利家の時代に武具職人を招いて設けたことに始まり、綱紀が 拡大・整備した御細工所のものづくりの参考資料として大成され、活用されていたのではないかと考えられています。百工比照の収集品や御細工所の内容を見ると、美術工芸のすべての分野について、加賀藩がほとんど丸抱えで運営管理していたことがわかります。同様の事例は、ほかの藩では見られません。こうした文化事業は、特に文化に力を入れた加賀藩3代藩主・前田利常や綱紀をはじめ、加賀藩の歴代藩主が文化に深い関心を寄せたからこそ、継続できたことといえます。

百工比照

第三号箱

第六架「釘隠引手等金具」

第二重

第三号箱と第五号箱には、小松城や江戸屋敷など、加賀藩関連の建築物で使用されていた建築金具が納められています。

所蔵:公益財団法人前田育徳会

武家のたしなみ、能楽

能楽は茶の湯とともに、室町幕府以来、武家の擁護を受けて発展しました。江戸時代に入ってからは式楽(公の儀式に用いる音楽・舞踊)となり、武家の教養として重視され、加賀藩でも奨励されました。前田利家は能楽に関しては豊臣秀吉の影響が強く、2代関白・豊臣秀次の師である金春の役者・下間少進は、前田家と親戚関係にもあり利家の好みを承知していたため、金春流を重用しました。秀吉が没した1598年、利家は金春七郎氏勝(金春流63世宗家)に金沢で勧進能を興行させています。3代藩主・前田利常は、京都の金春流竹田権兵衛安信(金春七郎氏勝の三男)を御手役者としました。

このように、利常の時代までは加賀藩では金春流が主流でしたが、秀吉以上の能狂いといわれた 5代将軍・徳川綱吉が宝生流をひいきとしたため、5代藩主・前田綱紀からは宝生流が主流となりました。綱紀は宝生流9代・友春を稽古に招き、金沢の能役者らに宝生への転流を命じたため、加賀藩士たちの多くも宝生流に転じました。また、綱紀は御細工所の細工人たちに太鼓・大鼓・小鼓・笛・地謡・狂言などを兼芸として習得させました。町人が能楽を習得することは異例で、ほかの藩では見られないことでした。こうして、現在も続く「加賀宝生」の基盤が整えられました。

大野湊神社の神事能

金沢市寺中町にある大野湊神社は、起源727年とされます。1586年に前田利家が社殿を再 興しました。1604年に前田利長による関ヶ原の合戦勝利の御礼として始まった神事能は、現在でも毎年5月15日に開催されています。

画像提供:大野湊神社

能面 翁

室町時代、作者は三光坊と伝わっています。

正月などの祝い事で演じられる演目「翁」で使用される能面です。

所蔵:石川県立美術館

武家のたしなみ、茶の湯

加賀藩では、初代藩主・前田利家の時代から、茶の湯や能楽を藩士のたしなみとして奨励していました。加賀藩歴代の師には、利家時代の千利休や織田有楽(織田信長の弟、千利休の弟子)をはじめ、小堀遠州、金森宗和、千仙叟(千利休のひ孫、裏千家の四代目当主)ら、当代一流の茶人が名を連ねています。

2代藩主・前田利長は利家と同様、千利休や織田有楽に学びましたが、3代藩主・前田利常は小堀遠州から茶の作法を学んだ後、金森宗和と交流し、千仙叟を召し抱えました。利常は小松に隠居したのち、1649年に宗和を小松城に招き、重臣らとともに茶をふるまっています。筒に「金森宗和造慶安四年二来」という利常の書付がある宗和作の「共筒茶杓」から、両者の交流がうかがえます。そして、 利常は1651年に千仙叟を出仕させました。仙叟は利常から小松城内に屋敷を賜り、利常が死去するまで仕えました。利常の死後、仙叟は金沢に屋敷を賜り、5代藩主・前田綱紀に仕え、金沢城玉泉院丸の作庭などを行いました。仙叟は金沢へ出仕する際、京都から楽一入(楽家4代)の門弟・長左衛門を金沢に同行したことで、長左衛門によって金沢で大樋焼が開かれました。能登出身の鋳物師で釜師となった初代・宮崎寒雉も、仙叟のすすめで金沢に移ったといわれています。

霰釜

江戸時代、初代宮崎寒雉の作品。

流麗な曲線をもち、無駄がなく整った風格。

わび茶にふさわしい釜です。

所蔵:石川県立美術館

飴釉赤茶碗

江戸時代、初代大樋長左衛門の作品。

全体にやや赤みを帯びているのは大樋焼特有の飴釉です。

所蔵:石川県立美術館

再現された、現在の玉泉院丸庭園。

画像提供:金沢城・兼六園管理事務所

展示の様子

全体の様子

いしかわ百万石文化祭2023の盛り上がりもあり会期中は大勢の方にお越しいただきました

パネル展示

紹介した画像は、すべて会期中パネル展示されていたものです。

ガラスケース展示

金沢城二之御丸三歩碁之図(2枚)を間近で見られるよう展示しました。

新しいMY SHOSHOのタイトル