[企画展]本の装丁~棟方志功と同時代の芸術家たち~

棟方 志功とは

棟方 志功

棟方志功(むなかたしこう)は、1903年に青森県青森市に生まれ、2023年で生誕120年を迎えました。棟方は雑誌『白樺(しらかば)』に掲載されたゴッホの「向日葵(ひまわり)」に感銘を受け、油絵画家を志して上京します。やがて油絵に疑問を持ち、西洋人の弟子ではなく日本人として生まれ切る仕事がしたいと考えるようになり、木版画に自らの求める道を見出します。同郷の仲間や文学者たちとの交流、民藝(みんげい)運動に関わる人々との出会いに力を得つつ、心豊かに力強く、前人未到の芸術の道を切り拓いていきました。その人柄や才能によって、棟方は生涯に渡り人との縁に恵まれ、愛された芸術家でした。

棟方志功 略歴

1903(明治36)年 0歳 9月5日、青森県青森市に生まれる。

1921(大正10)年 18歳 春、雑誌『白樺』2月号に掲載されたゴッホの「向日葵」を見て感動する。油絵描きになることを決意。

1924(大正13)年 21歳 画家を志し上京。帝展を目指すも落選が続く。次第に油絵への疑問を感じ始める。

1926(大正15/昭和元)年 23歳 第5回国画会展で川上澄生「初夏の風」を見て版画に開眼。

1928(昭和3)年 25歳 第6回春陽会展に版画「星座の絵」ほか2点を出品、3点とも入選。油絵「雑園」で帝展初入選。油絵と版画、二足のわらじの時代。

1930(昭和5)年 27歳 赤城チヤと結婚。

1931(昭和6)年 28歳 詩人・佐藤一英主宰の『児童文学』に挿絵を描く。詩人や文学者への人脈が広がる。

1932(昭和7)年 29歳 版画「亀田長谷川邸の裏庭」で国画会奨学賞を受賞、版画家として生きることを決意。保田與重郎ら『コギト』創刊

1934(昭和9)年 31歳 東京都中野区に妻子を迎えて住む。ふすまにタコの絵を描き殴り、家主から怒られる。保田與重郎と出会う。百田宗治『路次ぐらし』の装丁を行う。文芸書等への本格的な装丁のはじまりとなる。日本民藝協会設立

1935(昭和10)年 32歳 第10回国画会展に「萬朶譜(ばんだふ)」を出品、会友に推挙される。

1936(昭和11)年 33歳 第11回国画会展出品作「大和し美し版画巻」が縁で柳宗悦らの知遇を得る。「華厳譜」制作。京都の河井寛次郎邸に1カ月滞在、影響を受ける。日本民藝館開設

1938(昭和13)年 35歳 「勝鬘譜善知鳥版画曼荼羅(しょうまんふうとうはんがまんだら)」が第2回新文展で特選となる。安部榮四郎の協力により版画用の和紙が完成、裏彩色を本格化する。大原孫三郎・總一郎父子と出会う。

1939(昭和14)年 36歳 「二菩薩釈迦十大弟子」を完成。翌年の国画会展で佐分賞受賞。「新ぐろりあ叢書」第1期5冊の装丁を担当する。

1941(昭和16)年 38歳 12月、真珠湾攻撃、太平洋戦争に突入

1942(昭和17)年 39歳 初の随筆集『板散華』を刊行。自身の版画を「板画」と呼ぶことを宣言。

1944(昭和19)年 41歳 現・富山県南砺市の光徳寺にて「華厳松」を描く。

1945(昭和20)年 42歳 4月、現・富山県南砺市に疎開。5月、東京大空襲で代々木の自宅が焼け、戦前の作品の版木のほとんどを焼失。8月、終戦

1946(昭和21)年 43歳 10月、第二回日展に「鐘渓頌」を出品。岡田賞を受賞。12月、現・富山県南砺市内に住居を建て移り住む。「愛染苑・鯉雨画斎」と命名。

棟方志功 略歴(続き)

1947(昭和22)年 44歳 河井寛次郎の詞による「火の願ひ」を制作。手摺手彩色手綴じの本として刊行。

1949(昭和24)年 46歳 「女人観世音(にょにんかんぜおん)」を制作。1952(昭和27)年、第2回スイス・ルガノ国際版画展に出品、優秀賞受賞。

1951(昭和26)年 48歳 東京都杉並区に居を移す。

1955(昭和30)年 52歳 第3回サンパウロ・ビエンナーレに「湧然(ゆうぜん)する女者達々(にょしゃたちたち)」などを出品、版画部門最高賞受賞

1956(昭和31)年 56歳 ロックフェラー財団とジャパン・ソサエティの招きで初渡米。欧州も巡る。欧米各地で巡回展。眼の病が進行し、翌年左眼失明。

1961(昭和36)年 58歳 青森県新庁舎の壁画「花矢の柵」など公共施設への大作提供が増える。

1963(昭和38)年 60歳 岡山県倉敷市の大原美術館に棟方志功板画館が開館。

1969(昭和44)年 66歳 青森市名誉市民第一号受章。

1970(昭和45)年 67歳 文化勲章受章。文化功労者に顕彰される。

1975(昭和50)年 9月13日、肝臓がんのため自宅で逝去(享年72歳)。11月、青森県青森市に棟方志功記念館が開館。

我はゴッホになる!
雑誌『白樺』第12巻第2号,1921年
所蔵:日本民藝館
雑誌『白樺』は1910(明治43)年、武者小路実篤、志賀直哉、柳宗悦らによって創刊され、明治から大正期の文学・美術界に多大な影響を与えました。17歳の棟方は友人に見せてもらった『白樺』に掲載されたゴッホの「向日葵」に感銘を受け、思わず「我はゴッホになる!」と叫び、油絵画家の道を志し上京しました。

「民藝」との出会い
「大和し美し」(部分)1936年
所蔵:個人
撮影:市瀬真以
1936(昭和11)年、棟方は全20図におよぶ長大な作品を4面の額に入れて第11回国画会展に搬入しましたが、サイズ超過分の額が陳列拒否になりかけました。そこへ通りかかった工芸部審査員の柳宗悦と濱田庄司に見出され全図の展示が叶い、さらには半年後に開館する日本民藝館への買い上げも即決しました。民藝運動と棟方の出会いのきっかけとなった作品です。

彫る・描く~棟方志功の仕事

彫る・描く~棟方志功の仕事
鼻がこすれそうなほど顔を近づけ板を彫る一心不乱な姿が印象に強い人も多いのではないでしょうか。「日本人として生まれ切る仕事」を模索する中、ゴッホも賛美した木版画の存在に気づいた棟方は、版画家を志しました。その仕事は肉筆画、油絵から書にも及びましたが、「板画」(版画)こそが自らの道であると認識していました。
代表作の一つ「二菩薩釈迦十大弟子(にぼさつしゃかじゅうだいでし)」は空襲で版木が焼ける災難にあいつつも、サンパウロ、ヴェネチア両ビエンナーレにてグランプリをとり、棟方の名を世界に広めました。

もっと棟方を知るためのキーワード
板画(はんが)…随筆集『板散華(はんさんげ)』において「板の声を聞き、板の命を彫り起こす」という志から、自らの作品を版画ではなく板画と表記することを宣言した。

柵(さく)…棟方の板画作品につけられる言葉。お遍路の巡礼者が寺々に納めるお札のように、一点一点の作品に願いをかけていく想いが込められている。(言葉の本来の意味は木などでつくられた囲いのこと)

模様化…遠近法を意識せず、線の太さや強弱の変化によって自然を「模様」として装飾的に表現する手法。

裏彩色(うらざいしき)…紙の裏から彩色を施す技法。柳宗悦によって提案された。「観音経曼荼羅(かんのんきょうまんだら」1938年より本格化。

本の装丁と棟方志功

戦前~昭和20年代

画業がなかなか評価されない時期に棟方の生活を支えたのは、児童文学の挿絵の仕事でした。その後、文芸評論 家・保田與重郎(やすだよじゅうろう)との出会いにより人脈がさらに広がったことで多くの文芸作家の装丁を手がけ、「新ぐろりあ叢書(そうしょ)」全26冊すべての装丁を任されることとなりました。戦争による材料不足であった福光時代には、不揃いな小さい板木を活かし、詞と挿絵を一対として一つの画面を構成する「板画巻(はんがかん)」「板画本(はんだほん)」の制作に熱中しました。

昭和30年代~40年代

谷崎潤一郎は棟方の才能を認め『中央公論』に連載する小説『鍵』の挿絵画家に指名し、棟方も『鍵』の単行本化にあたり装丁に力を尽くしたいと、版画家としてできる最高の装丁を目指しました。『鍵』は大ヒットし、折しも海外美術展でのグランプリ受賞が2年続いた頃でもあり、棟方の名前が広く知られることになりました。多くの ベストセラー作家の本に関わり、昭和30年代には中央公論社の書籍に棟方のデザインが多く用いられ、その流れは他の大手出版社にも広がりました。

谷崎潤一郎『鍵』の挿絵

雑誌『中央公論』1956年1月号、5月号~12月号で連載された。すべての挿絵を棟方が手がけている。のちに単行本(谷崎潤一郎『伴』中央公論社,1956年)として刊行。上の挿絵は単行本より。
所蔵:石川県立図書館

民藝運動とその時代の芸術家たち

民藝運動と工芸作家たち

思想家・柳宗悦(やなぎむねよし)(東京都生まれ、1889-1961年)は、民衆的な日常品の美に着目し、日本各地の手仕事を調査・収集しながら、1925年、陶芸家の河井低次郎や濱田庄司らと共に、無名の職人による工芸品を「民藝(みんげい)」と名付けて民藝運動を始動させました。1926年には富本憲吉の賛同も得て「日本民藝美術館設立趣意書」を発表。バーナード・リーチ、芹沢銈介、棟方志功も、民藝運動に参加した主な人物です。

イギリス人の陶芸家であるリーチ(1887-1979年)は幼児期を日本で過ごし、ロンドン美術学校などでエッチング(化学薬品を用いた表面加工の技法)を学んだ後、1909年に再来日し、約10年滞在。柳ら白樺派の同人とも親交を結びました。河井(島根県生まれ、1890-1966年)と濱田(神奈川県生まれ、1894-1978年)は東京高等工業学校(現・東京工業大学)窯業科の同窓です。河井は1920年に京都の五条坂で工房と居を構え、濱田は1920年にリーチと共に渡英した後、1924年に栃木の益子で居を構え、作陶を続けました。

民藝運動と雑誌『工藝』

柳宗悦は1910年、志賀直哉や武者小路実篤らと文芸雑誌『白樺(しらかば)』を創刊しました。白樺派の中心的メンバーとして活躍した柳の関心が「美」の世界へも向けられたことで、『白樺』は当時の文学にも美術にも、大きな影響を与えました。1925年、当たり前の品・安物の品という意味で使われていた「下手物(げてもの)」という言葉に替え、「民藝(みんげい)」という言葉を柳たちが使い始めたことで、民藝運動が始まりました。柳たちは、それまで美の対象として評価されることのなかった工芸の中にこそ、大切な美の要素が宿ると考え、「民衆や民間」の「民」、「工藝(こうげい)」の「藝」を合わせた「民藝」という新しい美の概念の普及を目指しました。

1928年、柳は独自の工芸論を記した『工藝の道』を刊行し、工芸の美の本道とは何かを説いています。そして1931年に創刊した雑誌『工藝』は、「暮らしの美」を啓発する民藝運動の機関誌として、重要な役割を果たしました。創刊号から12号までの装丁は、柳の依頼を受けて芹沢銈介が手がけています。

芹沢 銈介

芹沢銈介(せりざわけいすけ)は東京高等工業学校の工業図案科卒業後、生涯の師である柳宗悦(やなぎむねよし)と、沖縄の染物・紅型(びんがた)に出会ったことがきっかけとなり、染色家になることを決意しました。。1930年頃から型染(かたぞめ)(型紙と防染糊を用いて布を染める技法)を中心とした染色の道を歩み始め、半世紀以上にわたって制作しました。。芹沢の文様は、文字・植物・人物・風景・幾何学模様など多様に展開しましたが、どの時期も明解で親しみやすい作風を貫き、従来の染色の枠組みにとらわれない、創意あふれる作品を数多く残しています。着物・帯・のれん・屏風・額絵・絵本など、種類も多岐にわたります。その他、本の装丁や赤絵(陶器の絵付け)、照明デザイン、美術館の設計など、幅広い分野で活躍しました。

1895(明治28)年 0歳 5月13日、静岡県静岡市に生まれる。
1916(大正5)年 21歳 東京高等工業学校(現・東京工業大学)工業図案科を卒業。
1927(昭和2)年 32歳 柳宗悦『工藝の道』に感銘を受け、生涯の転機となる。
1929(昭和4)年 34歳 国画会展に杓子菜文(しゃくしなもん)を染めた「紺地蔬菜文壁掛(こんじそさいもんかべかけ)」を出品。国画奨学賞を受賞。
1934(昭和9)年 39歳 東京へ転居。
1939(昭和14)年 44歳 翌年にかけて二度沖縄に渡り、紅型の技法を学ぶ。
1955(昭和30)年 60歳 有限会社芹沢染紙研究所を設立。
1956(昭和31)年 61歳 図案・型彫り・染めまでを一貫して行う「型絵染」で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。
1976(昭和51)年 81歳 フランスの国立グラン・パレ美術館で芹沢銈介展が開催される。文化功労者となる。
1981(昭和56)年 86歳 静岡市立芹沢銈介美術館が開館。
1984(昭和59)年 4月5日逝去(享年88歳)。

芹沢 銈介の仕事

芹沢銈介(せりざわけいすけ)は、静岡で暮らした1934年までは、ハンドバッグや座布団などの小物類を制作し、野菜や草花といった身近なモチーフ、幾何学模様など繊細な文様を用いました。東京へ移った1934年以降は、東北や沖縄を訪れて身近なモチーフ、幾何学模様など繊細な文様を用いました。東京へ移った1934年以降は、東北や沖縄を訪れて数多く手がけました。。『絵本どんきほうて』は合羽刷(かっぱずり)(型紙の上からハケで擦って着 色し図柄を摺りだす技法)ですが、1943年頃からは『益子(ましこ)日帰り』など、和紙へ型染する技法(染紙)を用いた絵本も制作しました。
終戦直後の混乱期は、本の装丁や雑誌の挿絵、染紙によるカレンダーなども量産しました。落ち着きを取り戻してからは、のれんや屏風などの大作も数多く手がけ、1950年代半ば頃からは着物も盛んに手がけています。この頃から、鎌倉の農家に借りた仕事場でも制作を始め、自然豊かな暮らしからも様々な文様が生まれました。「鯛泳ぐ文着物」もこの時期の代表作です。

和紙研究家・寿岳文章

ダンテ『神曲』の翻訳で有名な英文学者・寿岳文章(じゅがくぶんしょう)(兵庫県生まれ、1900 -1992年)は、和紙研究家、民藝運動家としても活躍しました。柳宗悦が書いたイギリスの詩人・ブレイクの研究書に感銘を受けたことにより、柳との交友が始まりました。1931-1932年には2人で『ブレイクとホヰットマン』という研究誌を発行しています。

寿岳は、書物を構成するもっとも重要な素材である紙に注目し、西洋の紙を調べるうちに和紙が世界で最上の質であることに気づき、和紙研究に入りました。1937年から4年かけて全国を調査して記した『紙漉村旅日記』は、民俗学者・宮本常一からも激賞され、和紙文化の精神性を知る名著として高く評価されています。1942年に刊行した随筆集『紙障子』では、和紙や装丁、民藝運動、芹沢銈介の『絵本どんきほうて』についても書いています。1944年に刊行した『日本の紙』は、現在も和紙研究の基本書とされています。『紙障子』『日本の紙』共に、装丁は芹沢が手がけました。

富本 憲吉

富本憲吉(とみもとけんきち)は陶芸家として知られていますが、東京美術学校では図案科に入学し、建築と室内装飾を専攻しています。21歳で東京勧業博覧会に出品したステンドグラス図案が入選し、イギリス留学中にはステンドグラスの実技を学びながら、ヴィクトリア&アルバート美術館に通って工芸品を連日スケッチしました。1914年に開設した富本憲吉図案事務所では、印刷物・室内装飾・陶器・染織・刺繍・金工・木工・漆器・舞台設計など、あらゆるもののデザインを手がけています。このなかで陶器は一部に過ぎませんが、バーナード・リーチとの交友がきっかけとなり、1913年には楽焼(ろくろを用いず手作りで成形する陶器)の制作を始め、ほぼ独学で陶芸の道を歩み始めました。

1886(明治19)年 0歳 6月5日、現・奈良県生駒郡安堵(あんど)町に生まれる。
1909(明治42)年 23歳 東京美術学校(現・東京藝術大学)図案科を卒業。前年よりイギリスへ留学。テキスタイルデザイナーであるウィリアム・モリスの思想などに影響を受ける。翌年帰国、リーチと出会う。
1911(明治44)年 25歳 安堵の自宅を改造してアトリエを構える。リーチと共に陶芸家・六代目尾形乾山に入門。
1926(大正15)年 40歳 柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司が来訪。「日本民藝美術館設立趣意書」に連署。翌年東京へ転居。
1931(昭和6)年 45歳 ロンドンでリーチとの合同展を開催。このうち3点はヴィクトリア&アルバート美術館が所蔵。
1936(昭和11)年 50歳 5~10月、九谷(現・石川県加賀市)に滞在。1941年10月、1943年6月にも九谷で制作。
1949(昭和24)年 63歳 京都へ転居。
1955(昭和30)年 69歳 「色絵磁器」で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。
1961(昭和36)年 75歳 文化勲章を受章。
1962(昭和37)年 76歳 プラハで開催された第3回国際陶芸展で「磁器色絵金銀彩四弁花文飾筥(じきいろえきんぎんさいしべんはなもんかざりばこ)」が銀賞を受賞。ローマ・アカデミーが買い上げる。
1963(昭和38)年 6月8日逝去(享年77歳)

富本 憲吉の仕事

富本憲吉の陶業は1913年に楽焼から始まり、白磁や染付へと展開しました。1926年に奈良から東京へ転居してからはさらに作域を広げ、九谷滞在なども経て、色絵磁器の作品を次々と発表。終戦後は京都へ転居し、晩年には色絵に金銀彩を加えた華麗な作風を大成しました。自らの考えを記した著作も多く、1950年には京都市立美術大学教授に就任し、初めて陶磁器が美術学校で独立した学科となりました。

イギリス留学から戻り、アトリエを構えた翌年の1912年には、『美術新報』「ウィリアム・モリスの話」で「いかなる場合にも彼の名を署した図案は彼の個性に一度必ずふれて、それから作品となっていることがよくわかります」と記しており、その後の陶業でも「模様より模様をつくるべからず」という信念のもと、身近な風景や植物のスケッチを基に独自の模様を生み出しました。模様だけではなく造形にも独自の美を追及したことも、室内装飾を学んだ富本の特徴と考えられます。

中川 一政

両親が石川県出身の洋画家・中川一政(なかがわかずまさ)は、2023年生誕130年を迎えました。明治中期に東京で誕生後、97歳で逝去するまで大正・昭和・平成と4つの時代を生き抜き、生涯をとおして精力的な創作活動を続けました。中川は若くから短歌や詩の発表を行うなど、文芸の才能をみせていました。20代を迎える頃には、独学で初めて描いた油絵「酒倉」が岸田劉生(りゅうせい)に認められます。同じ歳の頃に雑誌『白樺(しらかば)』でゴッホやセザンヌの作品に触発され油絵画家の道を志したという話は、同時代に生きた棟方志功との共通点が感じられます。56歳の時に神奈川県の真鶴半島にアトリエを設け「福浦港」の連作を生み出し、70代からは箱根・駒ヶ岳を相手にと、自然の中にカンバスを持ち込み自分の眼で見て描くという現場主義を長く貫きました。

1893(明治26)年 0歳 2月14日、現・東京都文京区に生まれる。
1907(明治40)年 14歳 中学校に入学。この頃から雑誌や新聞に自作の短歌や散文を発表。
1912(明治45)年 19歳 中学校を卒業する。この頃から雑誌『白樺』を読み、ゴッホやセザンヌを知る。
1914(大正3)年 21歳 「酒倉」が巽画会展で入選。画家の道を歩み始める。翌年、岸田を中心とする「草土社」に参加。
1922(大正11)年 29歳 岸田、梅原龍三郎、萬鉄五郎らとともに「春陽会」の創設に客員として参加、翌年には会員となる。
1949(昭和24)年 56歳 神奈川県足柄下郡真鶴町にアトリエを設ける。その後、約20年に渡り「福浦港」(湯河原町)の連作に取り組む。
1967(昭和42)年 74歳 「箱根駒ケ岳」の連作を始める。
1975(昭和50)年 82歳 文化功労者に選ばれ、文化勲章受章。
1986(昭和61)年 93歳 松任市立中川一政記念美術館(現・白山市立松任中川一政記念美術館)開館。松任市名誉市民となる。
1989(平成元)年 96歳 真鶴町立中川一政美術館開館。
1991(平成3)年 2月5日逝去(享年97歳)

中川 一政の仕事

処女作「酒倉」の入選後、中川は岸田劉生が率いる草土社へ参加し、武者小路実篤ら白樺派の人々と交流し、視野を広げました。写生を繰り返して描かれた詩情あふれる画が初期作品の特徴ですが、自身の道を模索していく中で、やがて作風に変化が起こります。40歳代後半頃からの作品にデフォルメが表れ始め、力強い筆致の画となっていきます。著作の中で語られた「とにかく、口にさわれば呼吸しており、手にさわれば脈をうっている。そういう画がかければよいと私は考えてきた」※という言葉からは、中川の画に対する信条が感じられます。また、中川の芸術活動は油彩だけにとどまらず、水墨岩彩・書・陶芸・短歌・詩・随筆などの文芸にまで及びます。新聞連載小説の挿画や本の装丁も数多く手がけました。とりわけ、火野葦平の『麥(むぎ)と兵隊』、向田邦子の『あ・うん』の表紙は広く知られています。

※「画の道 一」『腹の虫』日本経済新聞社,1975年

棟方志功の装丁本紹介

児童文学と初期の装丁本

棟方志功最初の装丁本は、昭和3年に発行された青森市の詩雑誌『星座圖』である。東京での暮しの中、蔵原伸二郎や佐藤一英らとの出会いがきっかけで、彼らの勧めもあって、昭和6、7年ごろから本や雑誌の装丁、挿絵の世界に踏み入ることになった。初期の装丁では主として児童文学の分野で多くの作品を残している。中でも春陽堂少年文庫のカバー絵や挿絵では非凡な才能を発揮している。

この分野では、戦争中でも新美南吉や平野直、戦後でも花岡大学や宮沢賢治の著作を飾るなど息長く関わっているのがわかる。

初期の装丁本では堀口大学の詩集『ヴェニュス生誕』が異色の作品である。本来は本文中に組み込むはずであったが、堀口の反対で、別冊画譜となった。画譜には表彩色と無彩色がある。

(棟方志功装画本コレクター 山本正敏)

福光疎開時代と富山文壇

昭和20年に東京から疎開した棟方一家は福光に拠点を構えた。昭和26年に東京へ戻るまで、棟方志功はこの地で板画や倭画、書などの制作活動を行った。

その間、富山県内の俳人や文筆家たちと親しく交流した。小説家の岩倉政治、短歌の岡部文夫、詩人の稗田菫平らの著作の表紙を飾り、前田普羅が主宰する俳句誌『辛夷』をはじめ、魚津の俳句誌『喜見城』や詩人の高島高氏が主宰する『文學國土』など、様々な文芸雑誌に表紙絵や挿絵を提供した。

 さらに前田普羅とともに、結核や戦傷病で療養する「国立療養所北陸荘」内の患者さんたちによる文芸クラブ活動にも協力して、療養所内で作られる川柳誌『貌』や句集『静臥』などの装丁に関わった。

(棟方志功装画本コレクター 山本正敏)

保田與重郎や民藝との出会い

戦前の文芸活動で日本浪曼派を主導した保田與重郎との出会いは、本や雑誌の装丁の分野で画期的な進展を見せた。

保田の著作の装丁を次々と手がけたほか、保田に近い文筆家たちが集結した出版社ぐろりあ・そさえての「新グロリア叢書」をすべて担当するなど、その活動は華々しいものがあった。戦前の書店では一時期棟方志功装丁一色に彩られていたと保田が述懐している。

 

また民藝運動の柳宗悦や濱田庄司、河井寛次郎らとの出会いは、版画家として大きく飛躍するきっかけともなった。

さらに日本民藝協会の機関誌『工藝』や『月刊民藝』をはじめ、民藝運動の良き理解者たちの著作物の装丁や挿絵を次々と手がけるなどして、生涯にわたる固いきずなを結び、交流を深めた。

(棟方志功装画本コレクター 山本正敏)

地方文壇への関りと中央公論社の装丁本

戦後、表現の自由が確保され、復興が進みだすと、日本国民は全国各地で様々な文化的活動を興した。その一環として、文芸の分野では小説誌、俳句誌、短歌誌、詩誌などの創刊が相次いだ。

棟方志功は自身の戦前からの幅広い交流の輪を生かして、それらの文芸雑誌の刊行に関わって、数多くの表紙絵や挿絵などを制作した。石川県内でも俳句誌『風』や短歌誌『黒百合』などにみられる。

 

昭和 30 年代に入り、版画家としての知名度が上がるにつれ、装丁の依頼も多く寄せられるようになった。その中では、谷崎潤一郎の晩年傑作『鍵』をきっかけに、中央公論社の文芸書―山崎豊子、今東光、獅子文六など―の装丁を多く手がけることになり、棟方装丁本は人気を博することになった。

(棟方志功装画本コレクター 山本正敏)

展示の様子

全体の様子

本のデザインと芸術の接点を興味深くお楽しみいただける企画展として多くの方にお越しいただきました。

パネル展示

紹介した画像は、すべて会期中パネル展示されていたものです。

ガラスケース展示

展示で紹介した芸術家たちが手掛けた装丁本を展示しました。

新しいMY SHOSHOのタイトル