[企画展]となりのモノノケ

自然の中の妖怪

ナマズと地震

「地震から連想するいきものは?」ときけば、日本人の多くは「ナマズ」と答えるはずです。いつから「地震といえばナマズ」となったのでしょうか。
茨城県の鹿島神宮にある「要石」は、地震を起こす地中の大ナマズをおさえていると伝わっています。鹿島神宮の神様である鹿島大明神は土地の「荒れ」をしずめる神として信仰されていました。
江戸時代には日本各地で大地震が何度も起こり、特に江戸では多くの被害が発生しました。そのような災害のあと、神々や民衆にナマズがおさえられている様子を描いた「鯰絵(なまずえ)」が流行します。地震を起こすものと考えられていた「ナマズ」を主に描いた錦絵で、さまざまな人や神様、動物などがナマズを取りおさえています。
今も地震をビジュアル的にわかりやすくナマズで表したものを目にする機会は多く、日本人のなかで「地震に関わるいきものは、ナマズ」がすっかり定着しているのかもしれません。

ナマズはなぜ地震と結びついた?

ナマズはなぜ、これほど地震と結びついたのでしょうか。
ナマズは夜行性の魚で、日中は水底に潜んでいます。エサを求めて水面近くにあがってくることもないため、昼間にナマズの姿を見ることはありません。しかし大きな地震が起こった時、その前に日常と異なる点がなかったかを振り返ってみると、井戸水が濁っていた・枯れた・水位が変化した、というようなことの他に、日中なのにナマズの姿を見た・ナマズが群れを成して暴れているのを見た、といった前兆現象を認識することがありました。そういったことが繰り返され、「日中にナマズが姿を現すと、地震が起こる」と伝わるにつれ、いつの間にか「ナマズによって地震が引き起こされる」に変化していったのではないかと考えられます。
また、鯰絵が大流行した江戸時代の人々も、鯰絵のとおりに地震が起きていると信じていたわけではありません。大きな地震のあとに余震が続くなかで、安心を得られるものや、心のよりどころを必要としていたと考えられます。いつ起こるかわからない揺れに「ナマズが引き起こす」という理由をつけ、要石や鹿島大明神が守っているのだから多少の揺れがあっても大丈夫だと、平常心でいられるように考えていたのでしょう。

妖しい動物 キツネ

油あげが大好きといわれ、キツネうどんにタヌキそばなど、とかくタヌキと比べられるキツネ。キツネとタヌキは、化ける動物としても有名です。きれいな娘さんから、人ではなく墓石に化けたという話まで、バラエティに富んでいます。伝承だけではなく能や狂言などにも登場するほど人気を誇っています。
石川県内にも、キツネの話はたくさん伝わっています。小松市では若者が農作業中、キツネが化けるのを目撃します。キツネは、とても美しい娘に化け、里いもを赤ちゃん、馬のふんをあんころにして民家に入っていきました。かほく市では、お坊さんに化けたキツネが人と禅問答を繰り広げることもありました。
化ける以外にもキツネが関わっていると思われる怪異が「狐火」。正体不明の灯りや火があると、人はそれをキツネが原因の「狐火」だと考えました。また、狐火が集団で列をなしているように見えるとそれを「キツネの嫁入り」といいます。

どうしてキツネなの?

キツネは夜行性、雑食性の動物です。食べものを求めて、人が生活している場所に来ることもあります。キツネは動く獲物をつかまえる時には、高くジャンプしてから前足で獲物をおさえます。走る時には 4 つの足を使いますが、ジャンプする時には、前足は地面からはなれます。その姿が人間のように見えたのではないか、と考えられます。街灯もない時代の夜は、今よりずっと真っ暗。少しはなれたところにいる影が人なのかキツネなのか、今より区別がつきにくかったのかもしれません。また、キツネの鳴き声は高く、女の人の悲鳴のように聞こえることもあります。これらのことから、キツネを人と間違えた人がいて、「キツネが化けた」といわれるようになったのかもしれません。
夜行性のキツネの目は、夜に光が当たると反射して光るという性質があります。姿が見えないほど真っ暗ななか、目に当たった光だけが見える、というのが狐火の正体なのかもしれません。

化かす動物 タヌキ

キツネとならぶ「化かす動物」の代表格、タヌキ。なかには名前がついた、有名なタヌキもいます。
佐渡金山の近くに住み、砂金を集めてお金持ちになった“佐渡の団三郎”は、なんと人間にお金を貸すこともあったとか。“淡路の芝右衛門” は芝居好き。人間の姿に化けて、大阪府大阪市にある中座に芝居見物によく出かけていたと伝わります。芝居小屋で芝右衛門をまつると、芝居小屋が繁盛するといわれました。“屋島の太三郎”や“阿波の金長”も有名で、タヌキは日本各地で化け、人間とともに生きてきたことがわかります。
また、昔話でおなじみなのが「文福茶釜(ぶんぷくちゃがま)」のタヌキ。今の群馬県にある茂林寺で伝わっている、湯がつきない不思議な茶釜を持つお坊さんの正体は化け狸だった、という話がモデルになっているそうです。
他にも、タヌキにまつわる不思議な現象といえば、深夜にどこからともなく神楽の太鼓のような音が聞こえてくる「狸囃子(たぬきばやし)」があります。タヌキが腹鼓を打つのは、人を化かすためという説と、自ら楽しむためという説がありますが…さて、果たしてどうなのでしょうか。

タヌキはなぜ化かすの?

タヌキはキツネと同じく夜行性・雑食性です。生活の中でよく見かける身近な動物でした。明かりのない真っ暗な夜は、何が起こるかわからない怖いもの。何かが動いた・音がした…昼間ならば何でもないことでもひどくおそろしく感じます。怖い思いをしたときに、たまたまタヌキを見かけたら? タヌキに化かされたと思ったのかもしれません。
また、タヌキをふくむ野生動物は人には近づきません。人影を見たらいち早く逃げたり、隠れたりするものです。人から距離をとるとき、家の角や林の入り口などで「どちらに行こうか」決めるのに、振り返ってちらりと人の動きを確認します。この「振り返る」動作は、人間が後ろめたいときにきょろきょろと辺りをうかがう行動に似ているため、人に怪しい印象を与えます。「悪事を働く小心者」のように見えてしまうのです。結果、説明しにくい不思議なことが起こると、「タヌキに化かされた」と理由付けしてしまうのかもしれません。

なお、地域によってはタヌキを「ムジナ」と呼びます。ムジナはアナグマを指すことがふつうですが、タヌキと非常によく似ているため、混同されていたと考えられています。

石川にもあった!?皿屋敷

お菊さんという女性の幽霊が、「1 枚、2 枚・・・」と皿を数えることで有名な怪談・皿屋敷。姫路が舞台の「播州(ばんしゅう)皿屋敷」や東京の「番町(ばんちょう)皿屋敷」が有名ですが、実は石川県内にも皿屋敷の話が伝わっています。
森田平次が編纂した『金沢古蹟志(こせきし)』は、金沢城および周辺の様々なことを記録していますが、「巻十 城東小立野台中」に皿屋敷が出てきます。出羽一番町の入口と永原左京の土地の間が長く空き地となっており、皿屋敷と呼ばれていたそうです。そして、子どもたちが話している皿屋敷はここではないかと書いています。その話では、小幡播磨が大切にしていた皿を召使いがあやまって割ってしまいます。怒った播磨はその召使いを殺し、遺体を井戸に投げ込みました。その後、幽霊が来て、皿の数を数えて泣き出すそうです。殺された召使いの名前はお菊さん。
このお菊さんには別の話もあり、小幡播磨のご飯の中に針が入っていて殺された、というやはり悲しいものです。小幡播磨の家はお菊さんの幽霊のため、断絶したといわれています。

お菊さんの呪い?

各地に伝わる皿屋敷の話の中でも有名な「播州(ばんしゅう)皿屋敷」。これは現在の兵庫県姫路市が舞台です。
戦国時代、姫路城の乗っ取りを企てていた重臣・青山鉄山のもとに、城主・小寺氏の家臣・衣笠元信がお菊をスパイとして送り込みます。鉄山の家来の町坪弾四郎はお菊が好きだったので、言い寄りますが、拒まれたため、お菊が管理している 10 枚の皿の内 1 枚を隠して濡れ衣を着せ、屋敷にある松の木につるし上げたうえ、殺してしまいます。やがて、お菊が殺された井戸からは、夜になると「1枚、2枚・・・」と皿を数える声が聞こえるようになったそうです。
その後、江戸時代に姫路城下でお菊の姿をしたお菊虫が大量発生しました。このお菊虫はジャコウアゲハのさなぎと考えられています。背中に細かい突起、赤い斑点のあるジャコウアゲハのさなぎの姿は、後ろ手に縛られ、つるされた女性のように見えるのです。このジャコウアゲハ、なんと今では姫路市の市蝶に制定され、親しまれています。

妖怪と文学

モノノケと妖怪とおばけと幽霊と

実体のない、なんだか怖いものは、「物の怪」「妖怪」「おばけ」「幽霊」とさまざまな呼び名があります。それぞれ、どんな違いがあるのでしょうか。
『日本大百科全書』をひいてみると…

物の怪
生霊(いきりょう)、死霊などの類をいい、人に取りついて、病気にしたり、死に至らせたりするつき物をいう。

妖怪
化物、変化のことで、「物の怪」など人の理解を超えた怪異現象をもいう。妖怪の多くは、まじめな信仰の対象であった神霊が零落して、その畏怖の念だけが残ったものといわれている。妖怪の特徴は、出現の時と場所がおおむね決まっていることである。

おばけ
化物。化けて怪しい姿をするもの。妖怪とほぼ同意義で、本体のあるものが姿を変えて出現し、人に怪異の情をおこさせるもの。

幽霊
死者の亡霊がこの世に現れるものをいう。

細かく分類されているということは、人々の関心が高かったということでもあります。文学作品を中心に、モノノケの描かれ方を時代ごとに追っていきましょう。

古代〜中世の怪異

死んだ人がうらみや無念などで成仏できずに姿を現すさまは、平安初期の仏教説話集『日本国現報善悪霊異記(にほんこくげんぽうぜんあくりょういき)(日本霊異記(にほんりょういき))』に見ることができ、他にも鬼や蛇などによる怪異が登場します。その三百年ほどあとの『今昔物語集』でも幽霊や妖怪が描かれ、能や狂言、落語の他、芥川龍之介の小説の題材になったといわれています。
平安時代の文学では、怨霊も大活躍します。怨霊とは、うらみや憎しみをもった人の生霊や、無念の死をとげた人の霊のこと。『源氏物語』の六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)はその代表ともいえる存在で、生霊となって葵上をとり殺し、死後も紫上や女三宮にとりついています。その他にもさまざまな物語で怨霊をしずめる高僧や陰陽師が描かれており、怨霊は身近な恐怖でした。
貴族から武士の社会へと変わっていった中世に書かれた『方丈記』や『平家物語』でも、霊魂や悪鬼が登場します。

江戸時代のモノノケ変化

木版印刷による出版事業が行われるようになった江戸時代。十七世紀後半になると、怪談に特化した怪談集がつくられるようになります。それまで口伝やウワサでしか広まらなかった怪異のイメージが、書物を通して多くの人々に画一的に広がるようになったのです。そういった怪談集を通じて、妖怪の立ち位置も変わり、「おそれるもの」から「怪しいだけ」「不思議なだけ」のものに変わっていきます。
さらに、名前と姿かたちを定めることで新しい妖怪も次々と生み出されていきます。「キャラクター」として草双紙(現在の絵本のように絵と文が書き込まれているもの)のなかで活躍し、親しまれるようになります。江戸の世も今も、キャラクターはさまざまに活用されます。おもちゃになったり、「化物尽くし」と呼ばれる一枚絵に図鑑のようにまとめられたり、浮世絵で描かれたり、しかけで客を怖がらせる歌舞伎「怪談狂言」の題材になったりなど。幽霊の「お岩さん」で知られる『東海道四谷怪談』も、もとは怪談狂言の名作です。
また、江戸時代には「本物」の妖怪が現れた記録も残っています。そのなかのひとつが『稲生物怪録(いのうもののけろく)』です。国学者・平田篤胤(あつたね)が紹介したことで、その後の文学者たちにも大きな影響を与えました。

明治〜昭和のモノノケ文学

明治以降になると、さまざまな幻想文学や怪奇小説、探偵小説などでも妖怪が取りあげられるようになります。
泉鏡花は江戸時代の『稲生物怪録(いのうもののけろく)』をベースにした『草迷宮』の他、いくつか妖怪が登場する小説を書いています。また、同時期に芥川龍之介は『河童』を書き、内田百閒も顔は人・体は牛の妖怪「件(くだん)」を小説で書いています。『大造じいさんとガン』で知られる椋鳩十は、小説には登場することがあまりない「一反木綿」を題材にしました。また、岡本綺堂は怪談のほか、時代・探偵小説でもある「半七捕物帳」シリーズでも妖怪を取りあげています。
戦後になると、民話からヒントを得て妖怪の話を創作する山田野理夫が登場します。また、雑誌でも妖怪が多く紹介されるようになり、水木しげるが妖怪漫画というスタイルを確立し、雑誌に掲載した妖怪を図鑑にまとめていきます。さらに、伝奇ロマンやSF作品も増えていきます。研究者がまとめた妖怪の情報を、創作者たちが作品として共有・拡散し、今の妖怪のイメージを作りあげていったといえます。
その他にも、子どもたちが学校でうわさする「学校の怪談」などで、新しい妖怪もどんどん生み出されていきました。

モノノケ文学のいま

現代の妖怪をあつかう小説に大きな影響を与えているのは、京極夏彦だといえるでしょう。「百鬼夜行」シリーズ、「巷説百物語」シリーズなどは出版されるたびベストセラーになります。また、妖怪マガジン「怪」(現在は「怪と幽」として刊行)の創設や妖怪に関する書籍の復刊に関わるなど、その影響は計り知れません。
その他にも、畠中恵の「しゃばけ」シリーズ・「つくもがみ」シリーズ、廣嶋玲子の「妖怪の子預かります」シリーズ、宮部みゆきの「三島屋変調百物語」シリーズなど、さまざまな妖怪や怪談を題材にしたシリーズものが増えており、これらはアニメ化などのメディアミックスも盛んです。また、児童文学やライトノベル作品、コミックでも妖怪ものは多く見られ、ゲームやアニメなどでも広く取りあつかわれています。今の小説などに描かれる妖怪は、江戸時代や明治時代の「怪しいだけ」「不思議なだけ」ではなくさまざまな要素が加わっていますが、変わらず私たちのすぐそばにいるような気がする、とても身近な存在のままです。

モノノケ研究

明治時代以降、さまざまな人がさまざまな視点から、妖怪の研究をするようになります。
日本で最初に「妖怪学」をとなえたといわれる井上円了(えんりょう)は、「妖怪」を合理的に解き明かし、科学的に否定していくことを目的とした研究を行いました。やがて井上は〝妖怪博士〞と呼ばれます。
民俗学者の柳田国男は、妖怪とその社会的背景を調査したり、妖怪伝承を集めて妖怪信仰の移り変わりの過程をたどったりすることを目的に研究に取り組みました。柳田の研究は現代の妖怪研究の出発点になったといえます。
その後も日本の説話や芸能、民間伝承に現れる妖怪が解説されるようになり、石塚尊俊が人について病気や死を生じさせる「憑きもの」の妖怪を論じます。その後、日本の歴史と怨霊系の妖怪の関係を明らかにした谷川健一、特定の地域における妖怪の伝承をまとめた井之口章次や桜井徳太郎、石川純一郎などが活躍しました。
一九八〇年代に入ると人々の妖怪への関心が深まります。妖怪は過去のもの・滅びゆくものではなく現代の問題にも通じるとした宮田登や小松和彦らが登場。信頼のならない、興味本位のものと思われがちだった妖怪を「研究対象」に引きあげたといわれています。

石川の妖怪

石川県人は妖怪がお好き?

石川では妖怪の姿がさまざまな本に書き記されています。

『三州(さんしゅう)奇談』は、江戸時代中期に、俳人・堀麦水(ほりばくすい)が世間に出回っていた話を集めた加賀、能登、越中に伝わる怪談や奇談九十九話が収録されています。
『聖城(せいじょう)怪談録』は、大聖寺藩の藩士が語った百物語集。大聖寺藩八代藩主・前田利孝が宿直の家来を集めて大聖寺城下の妖怪の話を語らせました。
他にも、金沢の俳人・鳥翠台北巠(ちょうすいだいほっけい)の見聞録『奇談北國巡杖記(きだんほっこくじゅんじょうき)』や各地域の地誌にも妖怪の話が出てきます。
石川の妖怪を取り扱った研究や作品は現在もたくさん生み出されています。民俗や歴史の研究会の会誌、博物館の紀要、県内を舞台にした小説などで、私たちは妖怪の姿を知ることができます。

泉鏡花と『稲生物怪録』

石川県出身の作家・泉鏡花は「おばけずき」で知られ、妖怪に関する伝承や文芸を元にした作品を多く書いています。鏡花は一八七三年に現在の金沢市に生まれ、十七歳の時に上京、その後十八歳のときに尾崎紅葉に弟子入りしました。亡くなるまでに三〇〇編あまりの作品を生み出しています。
そのなかのひとつ『草迷宮』では、小次郎法師と亡き母が歌ってくれた手まり歌を探している葉越明が、訪れた屋敷でさまざまな怪異(かいい)に遭遇します。二人を襲う妖怪たちは、備後国三次(びんごのくにみよし)(現・広島県三次市)が舞台の『稲生物径録(いのうもののけろく)』に影響を受けています。その一方で『稲生物怪録』では、主人公は勇気があると妖怪の頭に敬意を表されるのに対し、『草迷宮』では、妖怪は人間を避けているのに人間が勝手に見ておどろいているとされ、妖怪から見た人間の在り方に違いが見られます。
この『稲生物怪録』について、鏡花と民俗学者の折口信夫が話した記録が残っています。そこでは、鏡花が貸本屋の持ってきた写本を通じて『稲生物怪録』を知ったと語られています。

個性豊かな石川の天狗たち

赤い顔、高い鼻、背にはつばさを持ち、山伏のような姿をした天狗の伝説は全国各地に伝わっています。

石川の天狗は個性がとても豊か。ハムやお酒の名前にも使われています。白山市名物のおもちは天狗に作り方を教えてもらったともいわれています。
一方で、子どもがいなくなると「天狗にさらわれた」というなど、天狗はおそろしい存在でした。石川には天狗による神隠しの話がたくさんあります。神隠しにあった一人が足谷(現・小松市)の木こり・利兵衛の息子の次郎です。ある日、利兵衛のまくら元に次郎が来て、天狗に剣術を習っていることを伝え、切りかけの杉の木を何とかするようにいいました。その後、次郎は帰ってきませんでした。

そんな天狗がきらいなのは鯖。子どもが行方不明になると大人たちは、「鯖食た〇〇居らんかー」とさけびながら探します。そうすると鯖がきらいな天狗はその子を返すと考えたのです。
山中で突然小石や砂が降ってくることを「天狗礫」といいます。また、能登の石動山中では天狗の爪が落ちており、これを水に入れてのむとアザが治るといわれています。このように、天狗はさまざまな形で人々のそばにいます。

石川の妖怪たち①

猿鬼(さるおに)

猿のような姿の妖怪。猿鬼の伝承は能登地方を中心に県内各地にあり、大勢の部下を従えていた、一本角のおそろしい獣だったなど、さまざまに伝えられています。猿鬼退治が起源のお祭りもあります。また、七尾市の伊夜比咩(いやひめ)神社には、猿鬼の角が奉納されています。

ムジナ

ムジナは主にアナグマを指します。「長太ムジナ」が特に有名です。輪島市に伝わる話で、木こり・長太の小屋のまわりで毎晩「長太居るか」と呼ぶ声がします。声の主は八百年間山に住んでいたムジナで、長太を襲いましたが、殺されました。数年後、ムジナの妻が敵討ちに来ますが、護符のため長太に危害を加えられず、夫の法要を行うことで、和解しました。

大ムカデ

猫ノ島に流れ着いた漁師七人が島の主に、近くの島の主に狙われているので加勢してほしいとたのまれます。漁師たちは味方しますが、泳いでくる敵は大きなムカデ、漁師たちが味方した主も同じくらいの長さの蛇でした。戦いの末大ムカデをたおした漁師は島に移住します。

石川の妖怪たち②

飴買い幽霊

毎夜飴を買いに来る女性を不審に思った飴売があとをつけると、女性はお墓の近くで姿を消します。お墓からは赤ん坊の泣き声が聞こえ、確認すると、生きた赤ん坊が飴をなめていました。女性は出産間近に亡くなった幽霊でした。金沢市内の複数のお寺の他、能登にも同様の話が残っています。

ツチノコ

加賀市に伝わる話。瓜生伝(うりゅうつとむ)とその弟が、お屋敷に戻ろうとすると、外馬場の内側から黒くて丸いものがコロコロ転がってきました。これがツチノコと思われています。萩原玄恭という町医者も前田靭負(ゆきえ)の屋敷前で似たものに出会っています。
金沢市でもよこつちの妖怪・ツチノコらしきものが転げ回り、光って消えたという話が伝わっています。

河童

背中に甲羅、頭にお皿があり、きゅうりが大好きというイメージの河童。現在の七尾市中島町ではミソシ、白山市白峰ではカワラメなどたくさんの呼び名があります。ミソシは馬に食いつきましたが、百姓につかまり、放してもらった代わりに魚を持ってくるようになったといわれています。

石川妖怪マップ

ここで紹介する妖怪はほんの一部です。ほかにも石川県内にはたくさんの妖怪が棲(す)んでいます。

はく製・模型などの展示

河童(実物大復元模型)

兵庫県立人と自然の博物館蔵 大平和弘 制作

河童は最もメジャーな妖怪といっても過言ではありません。川や池に現れ、人間と相撲をとったり、時に水の中に引きずり込んで殺したりしてしまうこともあるおそろしい妖怪です。

こちらの模型は、江戸時代の河童の研究書『水虎(すいこ)考略(こうりゃく)』に描かれた、1801年6月に水戸藩(現・茨城県)東浜で網にかかって捕獲された河童の図を基に制作された、実物大のものです。

身長は100cmあまり、体重約45kg、胸がもり上がり首は太く短いと書かれています。ほかにも、この河童について、尻の穴は3つあって、屁は耐え難い臭いがすると解説された書物もあります。 

河童と聞いてイメージされるのは、頭の上に皿、背中に甲羅がある大きな亀のような妖怪の姿でしょう。しかし、そのような河童の姿が広まったのは江戸時代の中頃以降と、比較的新しい時代においてです。

河童と同じような特徴をもつ妖怪は全国各地で伝わっていますが、地域によってその呼び方が違います。「河童」というのはもともと関東地方での呼び名でした。近畿地方より西の地域ではガタロ(川太郎、河太郎)、エンコウ、ヒョウスベなどの名前で呼ばれます。

また、鳥取県を流れる日野川では、多くの河童伝承が残っており、その中のひとつとして、人間や家畜を襲う「ハンザケ」を退治した話が伝わっています。ハンザケとはオオサンショウウオの別の呼び方です。地域によって、河童のモデルとなった動物はさまざまであることがわかります。

キツネ(はく製)

キツネ

学名:Vulpes vulpes 

(食肉目イヌ科) 

所蔵:石川県立自然史資料館 

タヌキ(はく製)

タヌキ  

学名:Nyctereutes procyonoides 

(食肉目イヌ科) 

所蔵:石川県立自然史資料館 

ジャコウアゲハ(標本)

ジャコウアゲハ 

学名:Byasa alcinous 

(鱗翅目アゲハチョウ科) 

所蔵:石川県立自然史資料館

天狗の爪(サメの歯の化石)

天狗の爪 (サメの歯の化石) 

産地:クーリブカ、モロッコ 

地質時代:Eocene(中新世:約2300万年~500万年前) 

所蔵:石川県立自然史資料館

昔はサメの歯の化石のことを「天狗の爪」と呼んでいました。 

日本の新生代古第三紀と新第三紀の地層からは多くのサメの歯の化石が産出されますが、これらのうちもっとも大きなカルカロドン・メガロドンの歯の化石が天狗の残したものと考えられていました。 

江戸時代の本草(ほんぞう)学者・木内(きうち)石亭(せきてい)は『天狗爪石奇談』や『雲根誌』のなかで、多くの俗説を紹介しています。神奈川県藤沢市の遊行寺(ゆぎょうじ)や江の島弁天などではこの化石が「天狗の爪」として信仰の対象になっています。 

怪音 妖怪が出す音

妖怪は、姿が見えずとも「音」で存在を示すことがあります。ここで流れているのは、今でも身の回りで実際に聞くことのできる音ばかり。耳をすませて、妖怪たちの息づかいを感じてみましょう。
川などの水辺を歩いていると、どこからか聞こえてくる「ショキショキ」と小豆を洗うような音。「小豆あらい」という妖怪が出す音だとされていました。
誰もいないはずの山から、どこかで木を伐り倒す音が聞こえる。これは天狗の仕業だと考えられていて、「天狗倒し」とよびます。
怪音は家の中でも。誰もいないはずの天井、床下、カベの向こうで、何かがきしむような音、木が割れるような音、ふすまや床をドンドンと叩くような音がしたら、これは「家鳴り」とよばれています。
「鵺(ぬえ)」は夜に鳴く「トラツグミ」という鳥の別名。暗闇の中に響くトラツグミの鳴き声は不気味さMAX。そんな恐怖体験が、やがて妖怪の「鵺」を生み出したと考えられます。

会期中は展示モニターを設置し、映像とあわせながら妖怪が出す音を聴けるようにしていました。

展示の様子

自然現象や災害など、わからない恐怖を理解しようと昔の人々が生み出した妖怪や私たちがこどもの頃から親しんできた妖怪などの伝承についての解説、それらにまつわる模型などをご覧いただきました。

展示資料一覧

会期中に展示していた本の一覧をご覧いただけます。

展示資料一覧(左のリンクから資料一覧のページに移動します)

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