島田一郎と紀尾井町事件

大久保利通を暗殺した石川県士族のものがたり

事件前夜まで

紀尾井町事件とは

紀尾井町事件とは、西郷隆盛・木戸孝允とともに「維新の三傑」と呼ばれた大久保利通の暗殺事件です。

大久保を暗殺したのは、明治6年(1873)政変で下野した西郷隆盛に同調した、島田一郎・長連豪(ちょうつらひで)ら石川県士族5名と島根県士族1名でした。

忠告社と島田一郎

紀尾井坂事変 1927

明治7年自由民権運動がおこると、同年12月石川県士族の杉村寛正は「忠告社」を結成し、陸義猶(くがよしなお)らと共に士族民権運動を展開しました。

島田一郎は、忠告社の中で総勢400名といわれる「三光寺派」という一派を形成し、征韓論・台湾出兵などに従軍することで、石川県士族の名を挙げたいと考えていました。

島田一郎らの活動は武断主義であり、政治結社として活動する忠告社と対立するようになっていきました。

挙兵の失敗と暗殺の計画

島田一郎梅雨日記 初編 岡本起泉∥綴芳川春濤∥閲歌川房種∥画 島鮮堂 1879.6

長連豪は、鹿児島の西郷隆盛に信頼されていた桐野利秋に身を寄せ、私学校の人々と交わって深く影響をうけていました。

西南戦争の後、明治9年~10年各地で不平士族の反乱が次々起こると、これに呼応して、長連豪は島田一郎と一緒に金沢で挙兵を計画しますが、失敗します。

2人は挙兵を断念したかわりに大久保利通暗殺を計画し、同志を募り、紆余曲折を経て6名の刺客が決定します。

事件当日より

大久保暗殺

島田一郎梅雨日記 5編 岡本起泉∥綴芳川春濤∥閲歌川房種∥画 島鮮堂 1879.10

明治11年(1878)5月14日午前8時頃、大久保利通は、馬車に乗って現在の霞ヶ関にあった私邸を出発し、赤坂仮御所へ向かいました。

暗殺現場は紀尾井坂200メートルほど手前の紀尾井町。馬車が石橋を渡ると、草むらから現れた書生風の男の長刀によって馬の脚が切られて馬車がとめられ、大久保は刺客らによって斬殺されました。

大久保を屠った島田らは、その足で警察に出頭しました。

斬奸状

斬姦状 陸義猶∥著

事件に先立ち島田らは、忠告社副社長であった陸義猶に依頼し、暗殺の趣意書「斬奸状」を起草してもらいました。

「斬奸状」の後半は自由民権運動の思想に基づいて政府の対外政策を厳しく批判するもので、島田らの思想を反映した内容ではないと言われています。

事件にあわせて、島田は友人に「斬奸状」を投函させますが、「近事評論」「朝野新聞」ともこれを黙殺し、翌日の新聞に掲載されることはありませんでした。

物語となった島田一郎

島田一郎梅雨日記 初編 岡本起泉∥綴芳川春濤∥閲歌川房種∥画 島鮮堂 1879.6

暗殺の翌明治12年、戯作者の岡本起泉により島田一郎を主人公にした小説が発表されました。

「島田一郎梅雨日記」は恋愛要素を加えたフィクションで、庶民の気持ちは維新政府よりテロリストらに寄り添っていました。

大久保利通暗殺は明治政府の政策路線を変更できませんでしたが、島田一郎の名前は、戯作文学の主人公として庶民の記憶の根付くことになりました。

文献リスト

関連資料

島田一良の妄挙

島田一良の性行 横地永太郎∥著 横地永太郎写

参考文献

利通暗殺:紀尾井町事件の基礎的研究 遠矢 浩規∥著 行人社 1986.6

紀尾井町事件:武士の近代と地域社会 石川県立歴史博物館‖編集 石川県立歴史博物館 1999.4

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